旅の空色
2016年12月号
再挑戦『人間失格』 その2
〜似た者同士? チェーホフと太宰治 〜
なぜ太宰治はロシアの文豪・チェーホフが大のお気に入りだったのだろうか?
日本の文学界においては、チェーホフもロシア文学の大重鎮であるレフ・トルストイや
ドストエフスキー同様に早くからその文学的価値が評価されて、日本語訳版も競うように
出版されていて、一般的な読者にとっても手に取り易く、且つ人気のあるチェーホフ作品で
あったので、太宰治においてもプロの文筆家として、その真価を確認するのは
自然の流れであったと思われるし、と同時にチェーホフと太宰治の多くの境遇が
お互い似ていて、太宰としてはさらに親密感を感じたのではないかと思われる節がある。
チェーホフと太宰の共通点というか、共感できるであろうお互いの境遇を挙げると、
まず第一にふたり共に当時不治の病であった結核持ちであったことがある。
明らかに常人よりも短いであろう寿命の元に、真綿の紐で徐々に首を絞められるような
緩慢な死の宣告の前で、短くも美しく燃え尽きようとする、文筆に命を捧げるその想いは、
天賦の才を持つ結核持ち同士としての強い共感を太宰治が感じたのは間違いないと思われる。
実際にチェーホフは1904年に44才の若さで、ロシア文学界の文壇たちや
幾多のファンに惜しまれつつも結核の悪化によって亡くなっているのだ。
もともと太宰には自殺嗜好の悪癖はあるが、太宰の小説『津軽』において、
北限の古里に旅立つ理由を妻に諭す場面で短命で終わった文筆家を並べ立てているように、
神に愛された才覚のある者の多くは短命で終わるという美学を太宰は持ち合わせていた
ようにも思われる。
第二にふたり共に”モテ男”であったことも共通している。太宰の女癖の悪さは
改めてここで並び立てる必要はないと思うし、書き始めたら切りが無いので止めておくが、
チェーホフも背の高い男前に加えて、成功と名声、そして社交性で、
ロシアの社交界においてあまたの浮き名を流したというプレイボーイの誉れ高い
イケメン男子であったのだ。ただ太宰と違うのは節操があったところだろうか。
太宰は21才の時に青森・弘前で通っていた茶屋の芸者と一度目の結婚をするが、
チェーホフは女性たちとの噂が絶えない中でも41才まで独身を貫いたのだった。
チェーホフの白黒写真を見ると、いかめしく愛想の無いしかめっ面というものばかり
なのだが、これは沼野先生によれば人前でへらへらとしないロシア人男子の特徴だそうで、
あのロシアのウラジミール・プーチン大統領もメドベージェフ首相も日本訪問時に
笑顔があまり見られないのは、機嫌が悪いとか好き嫌いの表情からではなく、
ロシアの文化とか習慣の延長線上なのだそうだ。これに対照的なのはアメリカ人の
にこにこ顔であろう。ただどんな表情をしていようと、生き馬の目を抜く、騙し騙されの
国際政治においては、腹で何を考えているか分からないというのは一致している
と言えるだろう。そう言えば、太宰治の写真は陰鬱なものが多いと思われるが、
それを逆手に取って小説『人間失格』のプロローグに使うところあたりは、
太宰のしたたかさの一端を物語っているようにも見える。
第三にチェーホフと太宰治は優れた作家であるという点は言うに及ばないところ
であるが、その作品はふたりともに長編小説よりは中編や短編小説を得意とすると言える
だろう。長々と物語を語るよりは、一文の台詞で読者を魅了するとか、一語に魂を込めて
読み手の心を鷲掴みにすると言った作風があるように思われる。
例えば太宰においては、『人間失格』の有名な一句である「人間、失格」の一文において
物語のすべてを集約していると言えるし、『斜陽』では女の決意を「戦闘開始!」と
力強く表し、また「人は恋と革命のために生まれてきた」と女性の底知れぬ強さを
読者、特に女性に向けて投げかけていると思う。そして『桜桃』での食べちゃ種を吐き、
食べちゃ種を吐く一文は、やるせない行き場の無い気持ちをその汚い行為に見立てて、
話をきゅっと締めくくっている。対してチェーホフも、有名な短編『ワーニカ』において
便箋の宛名に「村のおじいさんへ」と小さな男の子に書かせることで、どうにもならない
世相を平易な言葉で見事に締めくくり、同じく『ドゥーシェチカ(=かわいい人)』では、
いつまでも周りの人にかわいい!かわいい!と主人公・オーレンカ(=オリガちゃん)を
呼ばせることによって、オリガを通して人の本質を見つめさせ、短編『ねむい』では
死んだように眠る少女に明日の絶望と破滅をくっきりと投影している。
つまりチェーホフも後期の太宰作品も、固い鉄をも切る斬鉄剣のような、限りなく鋭利な
刃先を作り上げるために、作品全体が存在するような小説を書くように思われるのだ。
太宰が崇めた大家・芥川龍之介も鬼才と言われるように正に凄みのある文章を書くことで
有名であるが、チェーホフの鋭く1点に深く突き刺さってくる作風も、太宰に大きな影響を
与えたことは間違いないと”私は”感じるに至ったのだった(あくまでも個人的な意見です)。
(補足1)作中の「人間、失格」の句点(、)はいつ見ても見事と感心します。
この句点ひとつで膝が折れて倒れ込む人間の姿がありありと浮かびます。
(補足2)「戦闘開始!」は太宰の愛人・山崎富栄の手記より、「人は恋と革命の
ために生まれてきた」という一文は、愛人・太田静子の日記より
太宰が見つけて借用してきたものです。女性の生の叫びには特別な価値を
認めていた太宰でもありました。いい意味で言えばですが‥。
(補足3)現代のロシア語辞典で「村のおじいさんへ」と引くと、
「宛先不明のものをおどけていう時に使う言葉」として解説されているそうで、
これはチェーホフの短編「ワーニカ」が発祥だそうです。
(補足4)『ドゥーシェチカ』は、正に今日本が世界に発信している「かわいい」文化と
同じニュアンスのスラブ語(=ロシア語)と言えると沼野先生は語っています。
同短編の英訳題名は「ザ・ダーリン」ですが、どうも内容としっくりしなくって、
言葉の壁の難しさを感じる好例だと思います。
(補足5)チェーホフの『ワーニカ』と『ねむい』は、当時のロシア帝国が児童教育用に
2作で製本化する計画があったという名文です。しかし実現することは
ありませんでした。日本では鈴木三重吉が1932年に児童雑誌「青い鳥」で
『ねむい』を翻訳・掲載した際には、結末の悲劇的な部分は子供向きではないと
あえて取り除かれ、改作されました。
このふたりの間で、まさしく正反対の対照的だった部分と言えば、
チェーホフは医者であり、太宰治は患者であったという点であろうか?
実はチェーホフは名門・モスクワ大学の医学部を卒業した本職は医者なのだ
(チェーホフ自身の表現によれば、正妻は医業であり、愛人が執筆業であったという)。
これに対して太宰治は精神的ショックから逃れるために睡眠薬を多用した挙げ句に、
精神科病棟送りとなっている。ただこの太宰にとっても悲劇的かつ絶望的な境遇が、
結果『人間失格』を始め、数々の作品の養分となっていることは間違いない。
太宰の妻・津島美知子はその回想録の中で、読者の人達は太宰の作品に書かれた数々の
物語はすべて太宰の実体験から来ていると誤解していると注釈を加えているが、
確かに小説には虚実相まみえるというか、事実を脚色する部分はあり、太宰の作品の中にも
それは確認できる。しかしながら、明らかに常人とは異なる幾多の実体験を持つ太宰治の
経歴が太宰の作品に生かされているのは、その人物伝を目にしたことがある人ならば
明々白々の事実であろう。太宰が妻に対して、あれは半分は作り事だよと諭したのは、
家庭であえて波風を立てない知恵であり、もしほとんど事実だよと言ったならば、
我が家が修羅場になることが分かっていたからである。嘘も方便、私でもそう言うだろう。
そして津島美知子も実は半分は騙されながらも、これはきっと悪い夢に違いないと
自分を慰めるためのノンフィクション否定だったのではないかと推察している。
また賢母とは、常に男を立てるものであろう。曰く、内助の功である。
チェーホフと太宰治、紹介したように幾つもの共通点は見られるが、チェーホフには
医者としての立派な社会貢献があるなど、太宰とは似ても似つかないところもあり、
やはりあくまでも別人と言える。しかしながら1904年に死んだチェーホフに1909年に
生まれた太宰治が、生まれ変わりの幻想を抱いていたように私には思われて仕方がないのだ。
チェーホフは才能ある作家の条件として、「ネタと才能、それに成熟と自由が必要」と
語っているが、とりわけ成熟に関して太宰治はある特定の部分が突出する形で発達する
というか、それを追い求めた生涯であったと思う。その特定の部分とは”愛”であろう。
これは太宰が幼き頃より母性から隔絶された世界で過ごしてきたゆえの強い欲求であると
その根源を推察すると同時に、掴んでも掴んでもなぜか決してそれに満たされることの無い、
包まれること無い愛のトラウマを逆に自分が抱え込んでしまったようにも思われる。
そんな成熟した太宰だからこそ、若き頃の最初の作品集の名は疲れ切った人生を語るような
『晩年』となったようだ。チェーホフにおいても、幼き頃より頭脳明晰とその能力に
恵まれていたものの、父親による執拗な折檻や拘束、そして家が破産するなどの苦労人であり、
特に”愛”と”現実”に関しては冷徹な観察眼を身に付けていたようだ。
だからチェーホフの有名な作品のほとんどは悲劇的結末であり、とりわけ子供においては
悲惨な現実と希望の見えない明日を暗示させる作風が多いと言える。
ふたり共に子供の頃から人の顔色を伺う観察眼を自然と磨かれ、夢よりも現実の厳しい
世界を生きてきたのだろう。やがて眼力のあるニヒルなリアリストの大人となったのは
当然の流れであろうし、結果それらはすぐれた作家としての素養とも言えるだろう。
〜チェーホフから『人間失格』に繋がるものは? 〜
厚かましくも勝手に沼野充義 東京大学大学院教授の門下生と宣言し、先生の著作
『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』および『チェーホフ短編集』を熟読した後に、
松下裕 翻訳の『六号病棟』や『退屈な話』などのいくつかの医療関連短編、
そしてチェーホフでは有名な四大戯曲『カモメ』、『ワーニャおじさん』、『三人姉妹』、
『桜の園』に目を通してチェーホフの世界を俯瞰した後で、どうやら私が求める
太宰治の『人間失格』を読み解くヒントは、回り回って元の戯曲『桜の園』にあるらしい
ことに再び辿り着く結果となった。何だか青い鳥を探すような最後の辿り着き方ではあるが、
急がば回れの理の通り、よくよく足場を固めた上で改めて周りを見回すと、
今まで見えていなかったものも見えてくるものである。おそらくは戯曲『桜の園』のみに
ただ目を通しただけでは、この物語は何が言いたいのかさっぱりわからなかったことであろう。
そもそも戯曲自体目にしたのは初めてで、その特異な文体に興味すら湧かなかったに違いない
(戯曲とは、正に演劇の台本そのものといった具合の書き方の読み物である)。
そして何よりも沼野先生のやさしくわかりやすい羅針盤があったればこその冒険でもあった。
それに『人間失格』を読み解くヒントになるであろう戯曲『桜の園』の問題の箇所は、
沼野先生が30年来悩んできたところでもあるというのだから、昨日今日チェーホフを
読み始めた私などには普通では分かるはずもない事柄でもあるのだった。
また今回チェーホフに触れたことによって、久しぶりに背筋がぞくっとするような名文に
出会えたことは、幸運なおまけまで付いてきた結果でもあったと言える。
次の回以降では、上手に伝えられるかどうかの自信は無いが、私の背筋に悪寒を走らせた
そのチェーホフの名文を取り上げてチェーホフの宇宙の一端を紹介するとともに、
太宰治の『人間失格』を読み解くひとつの鍵と思われる戯曲『桜の園』の問題部分についても
沼野先生のご指導の元で考察していきたい。
■ 執筆後記 ■
チェーホフと太宰治の比較。
そのつなぎ合わせは少々強引なところがあるように
自分でも半分反省しているところであるが、
私の文章はあくまでも”気軽な読み物”として
書いているつもりなので、
学術論文ではないことを改めてお断りしたい。
こんな文章を書いていると、
少ない読者にも関わらず、不思議なことも起こるもので、
旦那さんがモスクワに単身赴任しているお客様がいて、
私がチェーホフのことを書いていると伝わったようで、
その旦那さんが帰国した時に、私にチェーホフのミニ本を
お土産として届けてくれた。
初めてお会いする旦那さんの突然の訪問に
面を食らい、またわざわざの心遣いに恐縮の限りであったが、
つたない我が文章の戦利品として有り難く頂戴した。
ただそのモスクワ土産のミニ本は
当然ロシア語で書かれていて、私にはさっぱり分からない。
仕事でモスクワ赴任なんて珍しいなあと前々から思っていたが、
その旦那さんの話では大学でロシア語を専攻した縁で、
商社に就職以来、ずっとモスクワ滞在となったそうだ。
そもそもロシア語を専攻したのが、
旦那さんの親父さんがシベリア抑留者だったそうで、
その親父さんが時たまロシア語を漏らしたのが
ロシア語に興味を持った始まりという話を今回聞かせてくれた。
大学卒業以来、ずっとロシア赴任ということは、
1991年のソ連邦崩壊や、1998年のロシア通貨危機に直面し、
乗り越えてきたということであり、
また親父さんはロシア抑留からなんとか生きて帰ってきた
という事実も重ねると、親子二代、ロシアにおける
積年の労苦を思わずにはいられなかった。
「あなたエッセイで、改めてチェーホフをじっくり読んでみました」
と微笑んで語る旦那さんの眼の奥をしみじみと窺っていた私だった。
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