旅の空色
2016年 6月号
短編 『山寺』 第三弾
山頂参拝の最後に展望台「五大堂」を訪れる。
谷間に開けた平(たいら)に山寺の門前町を成す小さな集落やJR山寺駅、そして
遠方に奥羽山脈の峰峰を望むあまりにも有名な絶景スポットである。
しかしあまりにも有名であるが故の”おきまり”さに、とりわけ再訪者においては、
ああ、あの景色かとさほど期待が膨らまないのも正直なところ。と言って”おきまり”を
素通りするわけにもいかず、登頂参拝を果たしたという最後の確認の意味で、
総仕上げとして、友人と共に崖に張り付くように建てられた五大堂の楼に登った。
人は目のレンズ、水晶体を通して集めた光を眼球内の奥の一点に集中させて、
眼球の内壁の網膜にある神経でその光を受け止め、目に見えるものを認識するという。
同じ眼球の構造を持つ他の動物も同様の仕組みで、目に異常がない限りは、見えたものが
そのままに見えるのはごく自然のこととなる。ところが人にはもうひとつ、見たままのものを
さらに受け止める仕組みがある。それはこころである。つまりは同じ景色でもそのひと
そのひとのこころの持ちようによって、見え方が異なってくるのである。
山寺のさまざまを知った今、改めて”おきまり”と思ったその景色を眺め見ると、
全く違ったものに見え、少し驚いてしまった。もっとも冬の景色であるので、
以前訪れた夏の景色や、よくテレビで紹介される人出の多い風景と異なるのは、
当然のことかもしれないが、まるで油絵の名画をその隅々まで確認するような、
全体の輪郭や色の濃淡はもちろん、絵の具の盛り上がりの意味まで探るような目で、
感慨深く目の前にある白と黒を基調とした町並みや、うねる谷、連なる峰峰を
懸命に心で捉えようとする自分がいたのだった。
するとところどころ何かしら意味合いのあるだろう景色が飛び込んでくる。
最初に気が付いたのはJR山寺駅にある転車台であった。ホームでは全く気が付かなかった
のだが、駅舎の奥、崖の手前に今は使われていないターンテーブル(=転車台)が見える。
おそらくは蒸気機関車の時代、ここ山寺が山形市方面からの終点で、機関車の向きを変える
名残であろうことが偲ばれた。駅から左手にちょっと目を転じると、山寺の麓の平とは
明らかに異なる、ゆるやかに田んぼが重なる傾斜地が見えない谷の奥まで続いている様子に
気が付く。宮城と山形の県境、二口峠(ふたくちとうげ)へ続く谷地のようだ。
以前から疑問に思っていたことなのだが、山寺と宮城との間に電車の通るトンネル
はあるのに、なぜ昔からの人の往来ができる道がないのか、そして現代、直接自動車で
山を越える道がないのかと調べてみると、道はあるにはあるが、まるでミミズよりさらに
か細いイトミミズが、泥の中を這った跡のような心細い道が地図に張り付いていて、
その”林道”に属する道では、あまりにも道が険しく、あえて越境する者はいないらしい
ことがわかった。山寺から峠を越えれば、仙台の奥座敷、秋保温泉の裏玄関に至る道である。
さらに目を左に移して、真東を眺めれば、「山」の漢字が三つ重なって
三角形を作ったような、見事な山が現れる。下の方からもこもことすり鉢を
ひっくり返したような山がいくつも折り重なって、ひとつの山となっているような、
まるで山でできたピラミッドを思わせる、これぞ『山』と叫びたくなる堂々たる山である。
おそらくは南面白山(みなみおもしろ)だろう。そしてさらに左の東北東には、
痩せた狼がお尻を向けて伏せっているような、大きな二段の段差がはっきりと明らかな
けものの背骨のような峰を持つ特徴的な山が見える。こちらはたぶん面白山らしい。
積雪のためだろう、雪を被った山の稜線と空の青との境が刃物で切ったようにはっきりと
分かれていて、青と白と黒と、そして世俗に属する色々が少々底の方に溜まっている
それらの眺めは、我々の住む世界を縮図にしたような感じがして、もしかしたら慈覚大師・
円仁もそんな風に感じ入るものがあって、この地を特に気に入っていたのかもしれない。
心を洗われる風景とは正にこのような景色のことであろう。
「山寺がこんなにいいところだとは知らなかったよ」。
そう告げると、友人も遠い目をしながら「そうだなあ」と応えた。
同じ感動を友人が共有しているとは思えないが、彼は彼なりに思うところがあるに違いない。
「前に、20年前に来た時はデートだったからなあ。彼女の横顔ばかり気になって
ろくに景色など見ていなかったんだな」そう付け加えると、友人は笑っている。
あの時はそれはそれで一生懸命だったのだ。汗をかきかき石段を登り、由来も知らずに
境内を一回りして、麓の様子をさっと眺めて、来た道を降りていく。
相手の女性と同じ空間、同じ時間、同じ景色を共有できれば、山寺でも松島でも中尊寺でも
かみのやまの草競馬でも、気仙沼の寿司やでもどこでもよかったのだ。
ただ山寺は同じ効用の割にはだいぶ体力が要るというわけで、1度登れば沢山だと感じ、
「2度登る馬鹿はいない」などと吐いたのであった。
あれから20年。いろいろあって、物好きが嵩じて、馬鹿を承知で登ってみたところ、
今、新しい世界を発見したのだった。「またぜひ来たいな」と友人に告げると、
「いつでも付き合うよ」と言ってくれた。
きゃっきゃっとした明るく賑やかな声が下から聞こえてきたと思ったところ、
女の子の3人組が楼に登ってきた。3人は早速に欄干に歩き寄り、あれこれと指さしながら、
下界の眺望を楽しみ始める。
「どこから来たの?」東北弁特有ののんびりとした、やわらかい物腰で友人が声を掛ける。
「仙台からです」ひとりの女の子が気さくに応える。「学校は休み?」とまた返すと、
「開校記念日でお休みなんです」と応えてくれる。
どうやら仙台の女子高生仲良し三人組らしい。そんな友人のやりとりに流石と感心する。
にじみ出る人の良さと独特の柔らかな訛(なまり)からくるものだろう、
友人は出先で誰とでも、とりわけ若い女性と、このようなコミュニケーションを取るのを
得意とするのだった。全く羨ましい能力である。
それに比べて我が身は、この文章でもおわかりの通り、話が堅くていけない。
女子高生とのたわいない話を楽しむ友人を横目で見つつ、正直ねたんでいた。
「写真お願いできます?」と頼まれると、友人は腰も軽く、ハイハイと立ち回っている。
そして彼女たちのひとりが逆に「写真撮りましょうか?」と提案すると、友人は即答で
「お願いします」と返した。え!?我々ふたりの写真を撮るの?と顔がこわばった。
いい年のおっさんのツーショット写真なんて、華が無い上にみっともないったらありゃしない。
さらに最近、写真はあまりにも正直であり、自らの年齢を再認識させられる残酷な現実に
うんざりさせられていたのであった。加えてとりわけこの友人との写真には、
後で見て頭を抱えるような、嫌な面もある。しかしながらお願いしますと答えた以上、
いまさら異議を唱える余地など残されていなかった。心の中では、仕方なく、
本当に仕方なく、いやいやながら友人の隣に並んで写真に収まる。
彼女たちと別れて、山を下り始めてしばらくした時に、前を行く友人に思い出したように
告げた。「俺、Kさんと一緒に写った写真を見るとがっかりするんだよ。
だってまるで体型が同じなんだもん」。身長も同じくらいで、髪の短い丸顔、
そしてビール樽を思わせる太鼓腹と、ひと回りの年齢差は判別出来るとしても、
まるで左右対称のそっくりなだらしのない体型が並んでいるのだから目も当てられない。
初めて見る人にとっては、親子?兄弟?と悩ませるふたりでもある。
そんな苦情に友人は、「俺はSちゃんとの一緒の写真を見ると、まだまだだなって思うよ」と
笑って応えた。その”まだまだ”という言葉を聞いてはっとさせられた。
”まだまだ”というのは、まだまだ行けるという意味であろうか?
まだまだ俺もまんざらではないとか、まだまだ負けていないとか、、まだまだ先は長い
という意味であろうか?いずれにしても明るく前向きな答えに、内心ほっとして、
もう大丈夫なのだろうかと友人の背中に目で問い掛けた。
10年前の正月、友人から来た年賀状の裏の印刷された新年の挨拶の横に、
「今のお父ちゃんは大嫌いです」という殴り書きを見つけた時にはびっくりさせられた。
友人の奥さんが書いたものだった。前年の12月に、友人の三男坊が二十歳前という若さで
交通事故で亡くなっていて、そのショックから立ち直れないでふさぎ込む友人を
奥さんが非難したものだとすぐにわかった。どちらかというとお腹を痛めた
奥さんの方が心配で、お葬式の帰り際に「お母さんが心配です」とやっと声を掛けて
帰ってきたのだが、どうやらお父さんの方が参ってしまっていたようだ。
だからといって慌ててお見舞いに駆けつけても、友人はきっと空元気を決め込んで
遠方からの友には自分の弱いところなど微塵も見せないに違いない。
そもそも大の男を何と慰めたらいいのか、まるで考えが浮かばなかった。
ただ自分に出来ること、それは機会ある毎に友人を連れ出すくらいのことしかなかった。
あれから10年、友人にもいろいろとあった。
一番の大きな出来事は2011年3月の東日本大震災だろう。
友人の住む地は最大震度地で、大地震と多くの余震の揺れの中、生きた心地がしなかったと
語っていた。未曾有の大災害に、痛ましい被害が数え切れないほどあったけれども、
ちょっとした不思議な出来事もあった。あの大震災直後、友人の家にひょっこり小さな子猫が
現れて、そのまま極自然に居着いてしまったのである。人間の言葉が分かるような仕草を
する猫で、話し掛けると顔を仰いでにゃあと返事をしたり、猫の方からにゃあと話し掛けて
きたりと、しゃべりこそできないが、まるで家族の一員のように振る舞うのである。
もちろん友人も何かの縁と、猫を大事にしていて、猫のお陰でだいぶ癒やされている様子だ。
その他、孫たちの成長する姿や、新しい孫が生まれたり、やっと長男が身を固めたりと、
日々変わりゆく周りの景色に、心に影を投げ掛ける大きな悲しみも、少しは軽くなって
きているのかもしれない。しかし確かなことは、子供を失った悲しみは決してなくならないと
言うことだ。若すぎる息子さんの死が教えてくれたことは、命は思っている以上に儚いと
いうことと、親よりも早く死んではいけないということであった。
友人の”まだまだ”の言葉から始まって、そんなことを考えながら友人の背中を追っていた。
下山の途中、ガイドの話に出た地獄のばあさんの「姥堂」を覗き込む。
小さなお堂は中が薄暗くて、ぱっと見、ただの地蔵堂の様にも見えるが、よくよく
目を凝らして中を伺うと、恐ろしい形相のばあさんの木像が三体祀られている。
それぞれ赤い頭巾を被り、開いた口からは地獄のうめきを吐き出しているような、
恐怖感のある凝った造りのばあさんではあるが、やはり山寺の曰く(いわく)を知らないと、
折角の力作もその効果が半減してしまうかもしれない。とりわけ信仰心の薄れた現代社会では
尚更だろう。他にも下山途中に、小さな石仏や供養塔、供養積み石、水子地蔵、
小さな木札でできた簡単な念仏車などもところどころに見つけて、それら積年の
数え切れない供養が正に山のようになって、今に続く『山寺』たらしめていることを
改めて思い知ったのだった。
お昼もだいぶ回った頃、下界に、門前町に下りると、現世での苦痛が襲ってきた。
心の中は、たまたまの幸運にも恵まれて、山寺のあれこれで胸一杯の充足感で満たされて
いたのだが、さすがにお腹の中は、だいぶ歩き回ったこともあり空っぽ、
つまりは腹ぺこであった。しかしながら最初に紹介した通り、冬場の門前町は一切休業の
休眠状態で、お昼ご飯を食べられるお店は見当たらない。仕方がないので、
電車で1時間ほど我慢して、仙台で食事を取ることに決めて、JR山寺駅の時刻表を見ると
大抵は1時間間隔で運行されている電車が、この時は運悪く1時間半の間合いがあり、
しかも電車は20分ほど前に出たばかりで、合算すると2時間超、お昼ご飯おあずけ
ということになった。といって他に術は無く、せめてひもじさを暖で補おうと、
駅の待合室の引き戸に手を掛けた。
(次号に続く)
■ 執筆後記 ■
山寺ではお決まりの展望台「五大堂」からの冬景色。
この年は暖冬だったので、本当ならもっと雪に埋もれて白銀の世界が広がっていると思われる。
中央の林の手前、やや右にある小さな丸がターンテーブル(転車台)。
左上に伸びている白の平地が二口峠に続いている谷地である。
写真の右上の崖の鼻先や左中央の崖に見受けられるように
山寺には「五大堂」のような木造の物見櫓がいくつもある。
ガイドの話では、昔は子供の遊び場としても気軽に登れたそうだが、
今は朽ちて危険なために、立ち入り禁止となっている。
「五大堂」の少し上の高台に立つ「行啓 山寺記念殿(ぎょうけい やまでらきねんでん)」。
大正天皇が東宮(皇太子)の時代に、行啓(=来訪)された時に、休憩所として作られた
特別展望施設。敷地や建物は公開されていない。
この行啓がきっかけで、山形の山寺は名勝地として注目され、大きく発展したとされる。
松尾芭蕉の句も山寺には大きく貢献しているが、この山奥の谷地に東宮の行啓とあって、
インフラが整備されたのも、この地にとっては拝むほどに有り難かったことと思われる。
宮城と山形を結ぶJR仙山線が突き抜ける南面白山一帯の眺望。
「山」「山」「山」といった具合に山がぼこぼこと固まっている様子が特徴。
この有様では二口峠を跨ぐ昔の道がとても険しいのも容易に想像できるというものだ。
南面白山のさらに左、東北東にある痩せた狼の背中を思わせる面白山。
あの特徴的な段差の峰はどのようにして造られたのだろうか?
登山家の間では有名な難所なのだろうか?
あの峰に立って、まわりの景色を見てみたい気もするが、
どう見ても危なそうなので、きっと行くことはないだろう。
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