旅の空色


2016年 4月号


短編 『山寺』 第一弾

 トンネルを抜けるとそこは冬の山形。
列車はぎいぎいとブレーキを掛けながら、長い長い下りを谷間のわずかな隙に作った
軌道に沿って、蛇が這うように右に左に向きを変えてゆっくりと上手に下ってゆく。
ここら辺りは東北地方の背骨とも言うべき奥羽山脈の頂きが壁のように立ち塞がって、
西から来た雪雲がつっかえて溜まりやすく、雪深い土地ではあるが、
山の斜面が所々あまりにもきついので、そんな箇所ではいかなる積雪でもその場所に留まれず、
岩や土が露出して、雪の白と土の褐色と岩の色とが混じり合う、白を基調にした二色のぶち
といった具合の景色が常となっている。そんな不規則なだらしのない色合いを眺め始めて
5分もすると、いよいよ目的の駅、「山寺駅」にそろそろ着くという車内アナウンスが
流れ始める。

 冬の山寺は閑散としている。侘びしいといってもよい。
山寺は山形県を、いや東北地方を代表する観光地のひとつなので、ツアー旅行などで
一度でも訪れたことがある人がこの冬の様子を比べれば、正に天と地との差といった
具合に驚かれることだろう。それほど冬の時期はひっそりとして、季節の冷気だけが
漂っているだけの風景である。そもそも先に紹介したように大量の雪が降る。
険しい山肌には雪の安住の地はないが、その分、少しでも平らなところには、
これでもかっといった感じのてんこ盛り大サービスの案配となる。昨年だったと思うが、
今乗ってきた仙台と山形を結ぶ仙山線の列車が、山形から宮城に抜ける狭いトンネルに入る
手前で丸一日立ち往生したという事件があった。線路に降り積もった雪の厚みに
列車がうっかり乗り上げてしまったのだ。それほどこの地では、人間どもの隙を突いて
短時間の内に大雪が降ることもあるのだ。そんな土地柄だからこそ、冬期は観光客はもちろん、
信心深い人も含めても訪れる人が少ない。逆にこの時期を選んで訪れる人は
そんな事情を露程も知らない者か、もしくはある種の通といったかなりの物好きと
言ってもいいかもしれない。

 山寺駅の改札を抜けると、内心ひどく落胆してしまった。
雪が全くといっていい程無いのだった。いくつかの使命を胸に、あえて冬のこの地に
勢い込んで降り立ったが、その使命のひとつが雪に埋もれた山寺で、雪の中の静寂と、
風がもたらす雪のささやきを感じ取ることだったからだ。確かにこの年は暖冬で、
日本全国大晦日まで積雪がほとんどなく、スキー場などはどこも悲鳴を上げているといった
惨状であったが、年明け以降は雪が降り始め、この山寺地区にもまとまった積雪があったと
聞くに及んでの本計画実行であったのだが、どうやら2、3日前に降ったまとまった雨に
雪は洗われてしまったようだ。駅前の小さな集落の家々の屋根には、なんとか必死に
しがみついている具合の薄っぺらい残雪があるくらいで、この分ではこれから登る境内の雪も
思い描いていたような白く染まった世界という具合ではないらしく、それで駅を出た早々に
がっかりしてしまったという案配であった。

 出鼻を挫かれたと同時に、一緒に来てもらった友人にも申し訳なく思った。
友人は宮城の人で、体力に自信のあった若い頃には、この山寺の境内を何度も
登り降りしたことがあるという山寺に馴れた人であった。ただそんな彼でも、
冬の山寺は初めてということで、静けさに包まれた雪の境内を体感するのが、
今回わざわざ彼を連れ出した一番のお題目であったからだ。そんなことを思い巡らすと、
出発早々足取りも重くなってくるというものだ。そして集落というか、門前町の雰囲気が
先々の不安にさらに暗い影を投げかけた。開いているお店がほとんどないのだ。
ほとんどというか、正確には橋のたもとにある、おみやげと店先でここらの名物の
玉こんにゃくを煮ている小さなお店の1軒のみであった。後で知ったことであるが、
観光客で賑わう春夏秋の繁忙期は無休で働く代わりに、冬は一切休業というのが
この門前町の暗黙の掟らしい。もし山寺で期待した収穫がなく、さらに食事すら頂けない
結果であったら‥、心中では益々と暗雲が垂れ込んできた。

 まずは山寺の御山の入り口、「山門」までの108段の階段で足慣らしをする。
友人は一段一段、本当にその段数、108あるのか声で数えながら丁寧に段を踏んで行く。
途中で数は怪しくなるが、どうやら百と八つ、煩悩の数だけの段数はあるようだ。
すぐに左手の山門に行こうとする友人に掛け声と手招きで右手の大きな伽藍に誘った。
この伽藍こそ、今回の大きな使命のひとつ、「根本中堂」であった。しかしながら
この伽藍においても、冬の閑散期に合わせてだろう、木戸という木戸はすべて固く閉ざされ
ていて、古めかしい木造の外見以外は拝むことができない。またここでも失策かと
思いながら、伽藍を近くでまじまじと見たり、数歩離れて外観をしみじみ眺めたりと
諦めきれない気持ちを抱えてうろうろしていると、友人は伽藍をひと確認しては
さっさと山門の方へ歩いてしまった。まあ木戸が閉まっていては、なんてことのない
木造のただの構造物なのだ。木戸さえ開いていればおそらくは、凝った造りの堂内に
ご本尊が祀られていて、細工や彫刻に見入る価値があると思うが、なにせ今は厚い木戸にて
外界と遮断されているのだから仕方がないというものだ。そしてもうひとつ、それらの
細工や彫刻の他に是非とも確認したい大事があったのだが、目を見開いても細めても、
想像でしか内部を確認する手立てのない有様では、あとはただ立ち去る以外仕方が無かった。

と、そこへ石段を登って来る人影を認めた。二人連れの客、熟練のカップル、どうやら
フルムーンといった感じの夫婦のようであった。これなんだろうねえ?などと話ながら
近づいてくる。挨拶代わりに伽藍を見上げながらふたりに声を掛けてみた。
「これは根本中堂(こんぽうちゅうどう)っていうお堂ですよ。修行堂です。
この御山の開祖と言われる慈覚大師(じかく)・円仁(えんにん)の総本山である
京都のあの比叡山延暦寺にある大伽藍・根本中堂を真似て造られたものです」。
ふたりは話を聞きながら、ほほうっと改めて伽藍を見上げている。
折角の夫婦水入らずの円満旅に、やや親切の押し売りっぽさを感じながらも、
一度抜いた刀はきちっと仕事をして収めねば成らぬと、自分を納得させて話を続けた。

 「このお堂の中には、ご本尊が祀られていて、それと一緒に『不滅の法灯』
(ふめつのほうとう)という灯籠も祀られているはずで、実は私はそれを確認しに
ここに来たんです。でも残念ながら冬の間このお堂はこの通り閉められているようです。
不滅の法灯というのは、灯籠に火が焚かれたもので、天台宗の開祖であり、比叡山延暦寺を
開山した最澄によって灯されてから、ずっーと守り続けられてきた灯火(ともしび)なんです。
もともとは比叡山の根本中堂で守られていた火なんですが、有名な織田信長による
比叡山焼き討ちはご存じですよね。あの時に人も建物もそして不滅の法灯も全部焼かれて、
最澄によって灯された火も潰(つい)えたと思われたんです。ところが最澄の弟子の円仁が
この山寺を開山した縁で、その火がここに分けられて、残されていたんですね。
というわけで仏の教えの光によってこの世を隅々まで照らすという最澄の願いは
潰えなかったといういわくある灯籠がこのお堂で守られているわけです」。
ここまでしゃべってもう十分であった。期待していた法灯を見られなくて残念な気持ちは
重々あったが、見知らぬふたりに押しつけるような形でもそんないわくを語り継ぐことが
できて、気持ちは随分と癒やされたのだった。何のことはない。親切心というよりは
自らを慰めるためにふたりを相手にしたと言ってもいいのだった。やっぱりただの
お邪魔虫だったかもと思って、自分で自分がおかしく思えた。別れの挨拶も簡単に、
待たせている友人の元へ歩を早めた。山門の側で友人は待っていた。

 「ここから1100段ちょっとあるようだよ」。
入山料の小銭を払って、山門を抜けた後、いよいよ一段目に足を掛ける前に、そんな風に
言って友人を脅してみた。と言っても、自身の脚力にも全く自信があるわけではなく、
自分に対しての奮起の声であったとも言える。
「自分のペースでいいよ。後ついて行くから」。
そう告げて友人を先に登らせて、その後に続けば友人に負担は掛からないというものだ。
その友人はひと回りちょっと上の年の差で、まだ年寄りといった年齢ではない。
しかしながらなぜこのように気を遣うのかとういと、過去に悪い実績があるからであった。
数年前、やはり一緒に旅行した折、観光地をあちらこちらと付き合わせた時に、
どうも歩かせ過ぎたみたいでその友人が体調を崩したことがあったのだった。
せっかくの土地の山海の夕食と、大好きな酒もそこそこに寝込んでしまったのだった。
まあ早寝と栄養剤が功を奏して翌日には体調は回復したのだが、自分のペースのみで
連れ回したことをひどく後悔し、注意するようになったのだ。
ただ、こう言ってはなんだが、友人にも問題はある。そもそも普段の生活で歩かな過ぎる
のである。まるで足にタイヤが生えたような生活をしていると揶揄している。
なにせ家のすぐ近くにある歩いて数分のスーパーにさえ、常に自動車に乗って出掛ける
始末だからだ。田舎といってはなんだが、友人が住むような地域ではそれが当たり前の
自動車社会であることは十二分に承知してはいるのだが、もうちょっと健康のための
運動を心掛けて欲しいと時たま冗談交じりに忠告している。

 あんちょこ(虎の巻)を見ながら解説すると、山形の『山寺』で名の通っている
この古刹の正式名称は「宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)」という。
創建は西暦860年、今から1156年前と記させていて(2016年現在逆算)、
当時の天台宗の座主、いわゆる最高責任者であった慈覚大師・円仁による開山とされる。
しかし円仁の開山以前も、日本古来の山岳信仰において荒行を行う山伏たちの修行場であった
ようだ。現在の山形県自体、その中央部に山伏の修行場として名高い羽黒山、湯殿山、月山の
総称出羽三山を有しているので、屏風岩と奇岩からなるこの山寺が悟りを得るための地
として選ばれたのは、自然の成り行きと言えるだろう。またこの山寺の荒々しい岩肌には
ぼこぼこと穴が開いているのも大きな特徴で、それらの浅い穴は窟(くつ)もしくは
岩窟(がんくつ)と言われて、いにしえの人が死者を弔うためにも使ったとも伝わっている。
このような死者への風習は、東北地方の一部の地域で確認されていることで、
日本三大景勝地として有名な宮城の松島の一部の島の窟にも見られ、そして松島の岸にある
古刹、瑞巌寺(ずいがんじ)の境内にも同様に云われある岩窟が多数見受けられる。
言うならば昔、この山寺の岩山は死者の世界でもあったということだ。山寺にしても、
瑞巌寺にしても、それら寺の建立は死者たちの鎮魂の意味合いが強かったのかもしれない。
というのも瑞巌寺も、今は有名な戦国武将である伊達政宗とその子孫の菩提寺という
表看板が目立つが、もともとは円仁が開山した延福寺というお寺が源流である。
ちなみに円仁は東北地方だけでも300を優に超えるお寺の開山に関わったと言われて
いるが、おそらくはそのほとんどは、当時の天台宗の座主としての名義貸しみたいな流れが
あったのではないだろうかとも思う。ただ円仁が世界遺産に認定された岩手県平泉の中尊寺と
毛越寺(もうつうじ)の開山にも関わった事実は注目に値するものがあるのかもしれない。
開山後、およそ250年後に東北の一大勢力となった奥州藤原氏の初代、藤原清衡
(きよひら)によってこの両お寺は今に伝わる立派な姿に変わるのだが、清衡が寺の拡充に
尽力した一番の理由は”鎮魂”のためと言われている。東北争乱中に戦いに巻き込まれて
失った妻と子を始め、同様に失われた多くの命の供養のためにあの金色堂を始めとする
多くの伽藍を寄進したのだそうだ。この鎮魂の願いは、開山の祖・円仁の思いと重なる
というか、その思いを受け継いでの清衡の行いだったと考えてもいいのではないだろうか。

 御山の入り口である「山門」から、立派な杉の大木も立つうっそうとした木立の中を
一段一段自らの歩を確かめながら登る。どうも下ばかり見ていけないと思いながらも、
足元の安全の確認と山道でのやや息の上がった体とことごとく裏切られつつある期待が
顔を下に向けてしまう。100段ほど登る度に友人が一息つくので顔を仰ぐが、
目の前に立つ屏風岩は相変わらずの高さで、木立の間をジグザグに縫う石段の先は
ゴールのない、無限の彼方のように思われた。
「二度登る馬鹿は居ない」。
四半世紀前、実は一度この山寺を訪れていて、この御山を信仰する人には失礼だとは
わかりつつも、この御山を登り、眺望を見て、降りてきた時の率直な感想が
25年の時を経て今蘇ってきた。

(次号に続く)


■ 執筆後記 ■

2016年 2月16日(火)10時頃、山寺駅の改札を抜けて目に飛び込んできた最初の景色。
ご覧の通りの有様で、私を大いに失望させたのだった。
加えて昨日は得意先の農家さんたちと仙台国分町で夜遊びをしていたので、
二日酔いにも祟られて、登る気も失せていたのが本音である。
しかし友人が一緒だったこともあって気を取り直し、段に足と掛けた次第であった。
さらにこの友人のお陰で、後々豊かな経験をすることにもなった。

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