旅の空色


2016年 9月号


熊野

 熊野を語るに何と書いたらいいのだろう?久しぶりにペンが進まず悩んだ。
いにしえからの聖地であるので、軽い文体で書くのは畏れ多く、だからといって
うやうやしく語っても肩が凝るばかりで面白くないものになってしまうだろう。
書いては駄目、書いては駄目を繰り返す内に、正直投げ出したくなった。
最後には”百聞は一見にしかず”という結論に辿り着き、熊野を知るには
自分の目で肌で感じてほしいと言いたくなった。

 なんと形容したらいいのか、ある意味得体の知れない熊野である。
私も当初、熊野を目指した心持ちは、近所の神社参拝の延長線上にある祈願成就のお祈りと
観光客特有の軽い物見遊山の気持ちであった。ところが実際に熊野の3つの神社、
海沿いの街、新宮市の熊野速玉大社(はやたま)、山奥にある田辺市の熊野本宮大社
(ほんぐう)、港町・那智勝浦町から少し山に入った熊野那智大社(なち)の三社を
巡ってみると、妙な充実感に体が満たされる体験をした。これはいうならば
「一生のうちにやるべき100のうちの1つを達成できた」といったものであった。
確かに3年前に三重県伊勢市の伊勢神宮の2つの社、外宮(げくう)と内宮(ないくう)を
参拝した時も先に挙げた「100のうちに1つ」に当たるが、今回の熊野詣ではそれ以上の
達成感があったと言っていい。これは伊勢神宮に比べて熊野がさらに遠路上にあること、
3つの社殿がそれぞれ離れていて参拝に足と時間が掛かること、また熊野の神様は
我々庶民に近い存在に感じること、そして熊野の独特の雰囲気から醸し出される
秘境感の結果であると私自身は分析している。それプラスなんだか分からない気の充実を
感じ取ったと思ってほしい。そんな熊野であるので、あえて下手な文章で解説するのも
野暮ったらしい限りであるが、一応私たち家族が行った旅程を元に、熊野を紹介してみたい。


 今でもそうだが、陸路で熊野に至るにはきれいな砂浜で有名な和歌山県の南紀白浜あたりの
田辺(たなべ)からか、または大阪からの玄関口、和歌山市近くの高野山からか、
もしくは奈良県の桜の名所、吉野あたりから紀伊半島の真ん中に広々と広がる紀伊山地の
山々に分け入り、険しい山道を最初に熊野本宮大社を目指すのが王道のようだ。
それらの道は今は国道であり、昔は熊野古道といわれるか細い山道であった。
昔は三社それぞれ三角形の頂点として辺となる熊野古道で行き来できたが、
今は新宮市の熊野速玉大社を軸点にして、北へ山に熊野本宮大社、海沿いに西へ
熊野那智大社といった具合の国道の繋がりで、「逆L字型」の位置関係になっている
といった方が正確だろう。私たち家族は、夜行バスにて早朝の新宮市に着いたので、
熊野速玉大社より参拝を始めたが、いずれから回るにしても、車があれば1日で
三社を巡ることはできる。しかし今回の旅では、熊野詣での他に紀伊山地の山奥で行われる
村のお祭りと筏下りを体験する予定もあったので、3日にまたぐ旅程となったのだった。

 熊野のどの社もこざっぱりしているというのが私の所見である。
普通、これほど名の知られた神社仏閣ならば、参拝客相手に賑やかな売店が乱立すると、
門前町を成していると思うのだが、日本一の高さを誇る那智の大滝の近辺には
多少そんな商売っ気が見られる程度で、全体としてあくまでも神様が一番といった
俗世離れした雰囲気に包まれているといえる。最初に訪れた新宮市の熊野速玉大社は
思っていたよりもさらにこじんまりしていて、正面の鳥居から参道を通って本殿までが
5分ほどの歩しかなく、さらに参拝後はすぐに駐車場に出られるといった具合で
さらにこざっぱりさの印象が強かった。ただ訪れたのが8月15日ということで、
参道途中の広場で街のお偉いさん方が見守る中、戦没者慰霊のために巫女がふたり
神楽の舞いを奉納しているをたまたま見学できた。そんな風に粛々と年中の神事が行われて
いるのを目にできて、改めてこの神社の荘厳さに触れられたのは幸運だったといえる。
意外に早々と参拝の終わる熊野速玉大社の後は、徒歩で10分ほどのところにある
神倉小学校そばの神倉神社(かみくら)に登ることもおすすめしたい。
市の北側にでんと構える岩山の山頂付近に建つ神社で、遠い昔に住民たちの手で積み上げた
のであろう急な石段を400段超登ったところにご神体の大岩と社があるので、
健脚とちょっとした覚悟が必要なお参りとなる。このご神体の大岩に熊野の神々が
最初に降り立ったのが熊野神話の始まりとされる古事があり、またこの岩山があるお陰で
大河である熊野川がねじ曲げられ、新宮の小さな平地を水害から守っていると言える。
麓の神倉小学校では、男の子は6年生になると、自らの手のみで白装束に着替えて、
松明を片手に神倉神社まで石段を駆け上がる火祭りの試練が待っている。
まあ12才ということで、一種の成人の儀式であろう。熊野速玉大社ももともとはこの
神倉神社の麓にあったそうで、街のどこからも見える神倉神社こそ、新宮のシンボル的存在と
言えるのかもしれない。もちろん神倉神社から見る眺望は市街地を一望でき、
また遠く太平洋の水平線を望む絶景である。

 新宮市から熊野本宮大社に至る道は、大きな熊野川に沿った道なので、大河が水先案内人
となっている。車で1時間ほどの行程で、道もよく整備され、連なる山々の緑も深く、
運転する者にとっても楽しい時間となるだろう。35kmほどの道のりの途中、
信号機がひとつしかないのもこの地域ならではかもしれない。このひとつしかない信号機の
T字路を曲がり、少し行ったところを左折して、トンネルを抜けると川湯温泉に至る。
山の谷間の渓谷沿いにへばり付くように宿が並ぶ小さな温泉地なのだが、ちょっと寄り道して
覗いてみたところ、河原に出ている人の多さにびっくりした。人々は何をしているのか
というと、家族で所狭しと川遊びをしているのだ。ここの川は自然噴出の温泉が混じっていて、
ぬる湯になると聞いていたのだが、それを目当てにこれほどの人が集まるとは驚きであった。
海水浴ならぬ川水浴といった光景である。車を停める土地さえ余分はないので、
河原に車ごと下りられるようになっていて、砂利の河原は色とりどりの車と日よけテントと
人々で一杯という有様であった。ちなみに冬は川を堰き止めて、川全体が大露天風呂と
なるのが名物らしい。温泉好きとしては一度入ってみたい気持ちはある。

 国道沿いの高台に建つ熊野本宮大社もそんなに大きな寺社地ではない。
しかし神社入り口の鳥居の横に掲げられた三本足の黒いカラス=八咫烏(やたがらす)の
絵のある大きな旗印と、160段ほどのよく整備された石段の両側に隙間無く立てられた
白地に「熊野大権現」と書かれた旗指物が、いかにも威厳があって目にもまぶしく、
参拝者の背筋を正すのに十分な威力を発揮していた。
ここの本殿では面を食らってしまった。社殿が3つ並んであり、参拝場が4つもあるのだ。
いかにもひとまわり大きな社殿が本宮であろうが、その前に2つの参拝場がある。
熊野は自然信仰から始まり、神道や大陸からの仏教が合わさって今に至ると聞いたが、
その結果がこの並んだ社殿であろうか。一体どこに手を合わせたらいいのやら迷ってしまう。
それにすべてのお賽銭に付き合ってもいられないので、この願い事はこの神様と目印でも立てて
くれればいいのにと思った。仕方が無いので代表して本宮らしい参拝場で祈願と賽銭をし、
後は軽く挨拶してくることとした。初日の熊野参拝はここまでの2社までとして
この後私たちは今宵の宿がある北山村へさらに山奥へ向かったのだった。

 ここからは少し熊野詣でと異なる余談となるが、今回の旅のもうひとつの目的地、
和歌山県北山村について少し紹介したい。この村の特徴は日本で唯一の飛び地となっている
ことだ。和歌山県所属の自治体なのに、なぜか三重県内にぽつりと取り残された状態に
なっている。その理由はわからない。そのせいかは知れないが、和歌山県から
この村に入る一部三重県の道は、国道にも関わらず狭い酷道で、幽霊の出そうなトンネルの
おまけ付きである。北山村の様子はとても単純で、小さなダム湖の脇の開けた土地に
ほとんどの村民の生活が集中している。その一角に村の経営と思われる宿泊施設や温泉施設、
キャンプ場、運動公園があり、観光客を誘っているといった具合だ。
この村を例えればデビット・リンチ監督の人気ドラマ「ツイン・ピークス」の舞台となった
アメリカとカナダの国境近くあるという設定の小さな町であろうか。
ダムはあるし、山に囲まれた秘境だし、同じ日本でありながらもどこか隔絶感があって、
村にしても村民にしてもよそ者にはうかがい知れない秘められた問題を抱えているような
雰囲気もある。まあ私の手前勝手な印象ではあるが。
一番の村自慢、そして稼ぎ頭は、春から秋にかけて行われる筏下り(いかだくだり)であろう。
昔は山で切り出した丸太を5〜6本束ねて筏とし、その筏をさらに縦長に数珠つなぎにして
川を下り、川下まで運んだものだが、その長い筏に手すりを付けて観光客を乗せて
急流を下るのが、ここ北山村の筏下りである。川の水量もダムの放流で調節できるので、
よっぽどの悪天候とならない限りは安定して運行できるそうだ。こちらも例えれば
ディズニーランドのアトラクション、スプラッシュ・マウンテンの自然版といった感じである。
旅の二日目はこの筏下りで半日を費やし、北山村から那智勝浦町までの移動にも2時間ほどを
要したので、早々に那智勝浦の宿に入ってしまった。港から専用の連絡船で渡る
港口にある孤島の宿である。そう書いていて今更ながら気が付いたが、
今回の旅のテーマのひとつには「孤立」や「隔絶」もあったのかもしれない。

 最後に参拝した那智勝浦大社が熊野三社の中では一番賑やかと言えるだろう。
それはお参りに加えて、日本一の落差を誇る那智大滝が観光名所としての意味合いを
合わせ持っているからだ。つまりは誰にとっても見応えもあるということ。
ゆえに外国人観光客も多く見受けられた。そう言えば、熊野三社のうちここだけが周りを
有料の駐車場で固められていた(那智大滝の入り口にちょっぴり無料駐車場もある。
他の2社は寺社地内に無料駐車場が用意されている)。
一番寺社地も広く、山の中腹に社殿があるので、登り降りも一苦労となる。
また社殿の他に離れたところにあるご神体の大滝も要なので、参拝だけでも1時間は優に
かかるだろう。大滝の近くにある小さな社では、普通祭壇のあるところがぽっかりと
開いて窓になっていて、ご神体である大滝を拝むようになっていた。

 私たちの家族旅行の行程に沿って表面的に熊野を紹介したが、熊野のイメージを少しは
伝えることができたであろうか?お参りや願掛けも参拝者ぞれぞれの意気込みや
思い思いがあって、神様と向き合った時の感じ方もひと様々であろうが、
熊野においては三社参拝を成し遂げると「心が洗われた」気になると言われるように、
多くの人が心の充足感を感じるとりわけ特別な場所、聖域であることは、
未だに交通の便が悪いなかでも参拝者の絶えないその連綿と続く信仰が証明しているだろう。
私のような、自然崇拝の気持ちは少々持ち合わせていても、取り立てて強い信仰がない者で
さえも、熊野においては飼い猫のようにゴロゴロと主(ぬし)の為すがままに身を委ねる、
そんな心持ちにさせられてしまう。この上さらに祈願成就となれば、願ったり叶ったりで
重畳となるが、訪れられたこと自体ですでに十分な満足となっていると言える。
 また今回、満足度が高かった今ひとつの理由は家族3人で並んで手を合わせることが
できたからだろう。中学2年生の息子は、これから年々さらに忙しくなり、
こんな風に家族の縁(えにし)を感じられる機会もこれが最後かもしれないと思うと
ひとしおの思いでもあった。少なくとも日本を代表する伊勢と熊野の大神たちに、
3人揃って「ご挨拶」と、「縁の感謝」と、「健康無事」をご報告できたことは、
私たち家族としてのひとつの節目をめでたく終えられたような安堵感となった。
そしてまたいつか、この時と同じように、大神たちに私たちの今の無事をお見せできる
機会が持てたならば、それこそ「幸あり」の極みであろう。

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■ 執筆後記 ■

新宮市の熊野速玉大社の参拝道口にて。
熊野三社のうち、唯一平地に建つ神社で、楽々参拝できる。ここから3分程で本殿に至る。


参拝した8月15日は戦没者慰霊祭が行われていて、
参道途中の広場で市の重鎮が見守る中、巫女の舞が奉納されていた。


熊野速玉神社の本殿。ここの社務所で御朱印帳を買い求めて、
最近流行の朱印集めの開始となる。
ちなみに朱印とは、この神社に参拝にきましたという証明書きだ。


新宮市の神倉小学校近くの神倉神社参拝の登山道入り口。
400段程の石段だが、自然石で造られた階段は登り辛く、参拝には覚悟が居る。
ここを松明を片手に走り登るという神倉小学校6年生”男子”の恒例行事は
なかなかの荒行と言えるだろう。
”男子”と限定したのは、未だ女人禁制の名残があって、”女子”は参加できないし、
また男の子たちの装束の着替えなども、女性(お母さん)は手伝えない
決まりとなっているそうだ。
ただ普段の参拝にはそのような決まりはない(昔はあったかも)。


頂上にある神倉神社の本殿とご神体の大岩。
巨石が山の頂の上にぽつんと乗っかっている世にも奇妙な光景だ。


神倉神社の本殿より新宮市の街を一望する。
ここに熊野の神々が最初に降り立ったと言われている。


熊野本宮大社の参拝入り口。堂々とした八咫烏(やたがらす)の印の旗が眩しい。


熊野本宮大社の石段は整備されていて、とても登り易い。
参道両脇をずらりと固める「熊野大権現」の白旗が空気を引き締めている。


熊野本宮大社の本殿。
後から知ったことなのだが、熊野三社は自然崇拝、神道、仏教となんでもありで、
いろいろな神様が揃っている故に、神殿がいくつも建っているそうだ。
とくにこの熊野本宮大社は参拝所が何カ所もあり、どこに手を合わせればいいのか
迷ってしまう造りである。


本殿からは離れているが、熊野本宮大社では絵になる光景の名物・大鳥居。


新宮市の熊野速玉大社から山奥の熊野本宮大社へ向かう国道168号線の途中、
広い熊野川の対岸の山の斜面の森に埋もれるように建つ建物が気になった。
上と下に二段になって、同じような細長い建物が並んで建っている。
当時人気のあったアニメ「暗殺教室」の山の校舎に似ていたので強く惹かれたのだった。
帰路、わざわざ対岸に渡って、近くまで行って建物を確認してみると、
どうやら廃校となった木造校舎跡だと分かった。
敷地は雑草で荒れ果てて、入ることは出来ず、建物の一角を見るに止めた。
下が小学校跡、上が中学校跡のようだ。
でも、進学して上の中学校に通うなんて、素敵な環境だと思った。


2日目に泊まった那智勝浦町の宿・ホテル中の島。
港町の湾の入り口にある島全体が宿の敷地になっている完全な孤島。
宿専用の船で渡るようになっている。


同じ那智勝浦町では有名な巨大ホテル・ホテル浦島。
このホテルも宿専用の船で渡ることで知られているが、
宿の敷地は湾を囲うように伸びた半島状の岬にある。
つまりは本来は陸続きなのだが、半島状の付け根に不便があるのか、
それともあえて船の利用で雰囲気を出しているのか、
そこら辺の事情はわからないが、ひっきりなしに船が往復している。
息子はこのホテル浦島に泊まりたかったと抜かしていたが、
あえて大人の雰囲気を優先して、今回はホテル中の島を選んだ。


那智勝浦大社の参道鳥居にて
すぐ上に本殿関連の建物が見えるが、駐車場からここまで、門前町の階段は結構きつかった。


那智勝浦大社の本殿。
ここの社務所で朱印を頂いて、熊野三社すべての朱印が御朱印帳に揃った。


那智の大滝を望む有名な写真スポット。


落差日本一。滝そのものがご神体という那智の大滝。

寺社内を歩くという意味では、那智勝浦大社がもっとも歩くと言えるだろう。
加えて登り降りもかなりあり、本殿と大滝を見て回るのに1時間ほどを要する。
我が家は休みが少ない関係で、真夏のお盆での熊野三社参拝となったが、
できれば過ごし易い春や秋の訪問をおすすめしたい。

帰りは息子の一度飛行機に乗ってみたいという希望を汲んで
南紀白浜空港より羽田まで飛ぶことにした。
ジェット機は横7列シートとかなり小振りな機体だったが、
それゆえ離発着ともに迫力があって、一種のアトラクション的趣向ともなった。
世界でも屈指と言われる東京と羽田の美しい夜景を嫁と息子に
見せることができて、家族を置いてちょくちょく旅行に出掛ける
自身の浄罪に少しはなった気がした。


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