旅の空色


2016年10月号


読書のススメ 〜息子の逆襲〜

  「パパ。この本読んでみる?」息子が本を鼻先に突き出す。
(お前がこの俺様に本を薦めるだと。なんと挑戦的かつ無謀なことか。
どうせ「かいけつゾロリ」といった類の俺様からしたらたわいのない、平仮名ばかりで
書かれた小学低学年向けのおこちゃま本だろう)といぶかしげな目線を息子に送りつつ
本を受け取る。本屋の付けたサービスの紙カバーをめくり、本を確認すると題名には
『君の名は。』とある。「ほほう」といった感嘆の言葉を思わず漏らしてしまった。
『君の名は。』と言えば今話題のアニメ映画で、アニメの巨匠・宮崎駿の作品群に並ぶ
興業を達成した作品ではないか。しかもそのアニメの脚本と監督を手掛けた新海誠なる
人物の書いた小説版がこの本であった。この本もなかなかの評判で、
有名な受賞作の小説を尻目に、こちらも100万部を突破する勢いの本であると聞いていた。
「なんで映画を見ないで本で読もうと思ったんだ?」
どう見ても今風に映像から入り易い我が子がなぜ本を手に取ったのか不思議で聞いてみた。
「友達の間でも話題の作品だから興味があったんだけど、今回は本から挑戦してみたんだよ」
それを聞いて私は目頭が熱くなってしまった。やっと、やっと報われる日がやってきたのだ。
何とか本に、読書に興味を持ってもらおうと、一緒に本を読んだり、読み易い本を薦めたり、
年相応のテーマの本を取り寄せたり、新聞のコラムを選抜しては与えたりと、
文章に慣れ親しむようにといろいろと手を尽くしてきたが、どうやらやっとのこと
小さな小さな芽が顔を覗かせたようなのだ。この変化を、芽を大切にしなければならない。
いとおしく両手で覆うよう温めて、大事に大事に育たねばならない。
さっきまで周りに充満していたいぶかしさという名の霧は、息子の新鮮な言葉に吹き払われて
雲散霧消し、希望という名の太陽のもとに晴れ渡った空の下の空気のような清々しい
心地よさが私の心に充ち満ちて行くのを感じていた。

 ところで息子はその本を、作品をちゃんと理解して読んだのであろうか?
息子にとって初めてと言って良いお気に入りの記念すべき作品となったのだから、
人前での発表が苦手という不得手の克服も込めて、物語の内容についてまずは
簡単にプレゼンテーションをさせて見る事にした。
「えっと、えっと、高校2年生の男の子と女の子の心というか魂というか、中身が
入れ替わっちゃうんだよね。男の子は東京で暮らしてて、女の子は田舎の子で、
それぞれ今までとはぜんぜん違う世界の体験をするんだよ」
(はは〜ん。山中恒(ひさし)原作の映画「転校生」のパターンだな。あれは神社の石段から
転げ落ちた拍子に、幼なじみの男の子と女の子の心と体が入れ替わっちゃうラブコメディー
だったよな)と我が時代のそれと懐かしく比較してしまった。
[ちなみに余談ではあるが、山中恒原作の「転校生」について後で調べたところ、
女の子のヒロイン役には若き小林聡美が熱演していて驚いた。下世話な紹介だが
三谷幸喜と結婚しその後離婚した女優である。さらに相手役の男の子はと名を見ると、
「尾美としのり」とある。

「尾美としのり」?聞いたような聞かないようなぼんやりした名前だなあと
喉に刺さった小骨を取るべくさらに調べてみると、なんと朝の超人気ドラマ
「あまちゃん」であまちゃんのお父さん役をしていた人ではないか。こりゃまた驚いた。]

「で、入れ替わってどうなったんだ?」と私が話の先を催促すると、
息子はそこでもじもじとし始めて、顔を少し赤らめ、黒目を仰いであれこれ思案した挙げ句に
「これ以上はヤバくってとても説明できない」とプレゼンが止まってしまった。
(ヤバくて言えない?なんじゃそれ)青少年が見るアニメ映画にR15やR18指定じゃ
あるまいし、そんな際どい話が紛れ込んでいるのかと思ったが、同時に「転校生」の
パターンを思い出して、はは〜んとばかりに息子が語れないその訳を推察した。
「どうせ入れ替わった時に、男の子の方がこの機会にとばかりに女の子の体を、
胸あたりを触ったりしていたんだろ」と息子にぶつけると、「どうして分かるの?」と
息子は目をパチクリさせている。異性に興味津々の年頃の男の子なら、
今の状態が夢か現実かの確認も込めてやりそうなお決まりの行動パターンだ。
「俺やお前が主人公だったなら、きっと同じ事しているよ」とさらに突っ込むと、
息子の赤ら顔はさらに真っ赤になった。どうやらそこら辺もこの作品の魅力のひとつらしい。
しかしこんなたわいないことで赤提灯のようになった息子はなんとうぶなことか。
自分にもそんな時代があったのだろうか?今や記憶には片鱗も見当たらなかった。
「それで?」とさらにプレゼンを促すと、
「お互いにそれぞれ入れ替わった先で、いろいろあるんだけど、同じ日本に居ながらも
連絡は取れないんだよね。携帯電話で電話してみても、毎回現在使われていませんって
なっちゃうんだよね。そこら辺がこの話の結末のヒントになってきてるんだけど」と
すでに結末を知っている息子は少し得意げに、且つちょっと意地の悪い含みを込めて
語っている。
( 俺を侮るなよ。SFやファンタジー小説は一時夢中になって得意としている分野なんだ。
これはきっとこのパターンに違いない)と考えた私は、
「それって平行世界の中の話なんじゃないかな?同じ時間の流れの中に、同じような世界が
平行して存在するってやつ。その異なる次元の世界をふたりは行きつ戻りつしているとか」
と当てずっぽうに投げかけてみると、「うう〜ん」と少し考えた後で、
「違うな。ふたりの世界は同じだよ。でも違うんだな。」と何とも煙を幕くような答え。
「でも、そこが分かっちゃったら面白くないし、とにかく読んだ方がいいよ」と
これ以上は教えないよと手を振り振り寄り切られてしまった。
正直、息子程度の輩に勧められた本を読むのにはプライドに触るというか、
抵抗があったのだが、これを機会に息子が読書の楽しさに目覚めてくれればとの願いが
先に立って、息子とのシンパシー(共感)を高めるべく、早速に『君の名は。』の
世界に足を踏み入れたのであった。

 読み始めて、正直最初はその簡素な文体に少し失望した。
まるで今の若い子たちがメールやラインでやりとりするような軽い文面に、安直な表現に
物足りなさを感じた。しかし読み進めていくうちに、所々に配された何気ない伏線が
段々と重要な意味を持って行くことや、美しい映像描写を得意とするという作者・新海誠の
季節や風景の表現力がとても豊かに文字になっていることに感心し始めた。
話のテンポも良く、残り3分の2あたりからは先が気になって一気に読み終えてしまい、
確かに世間の評判通り秀作であると思った。
(れん[=錬。息子の名前]め。なかなか良い本に巡り会えたな)
読み終えた時に、素直にそう思えたのだが、何かしらしこりのような違和感がある。
この違和感は何なのかと、もう一度パラパラと本をめくり直してみると、その原因に
改めて気が付いた。なんとすべての漢字に読み仮名が付いているではないか。
最近の本はここまで丁寧に作られているのかと、本の表紙を再度確認すると
出版名に「角川つばさ文庫」とある。角川って「角川書店」が本家本元じゃないの?と
不審に思い、その出版名のいきさつを調べてみると、「角川つばさ文庫」とは、
「角川書店」の作品の児童書版であることが知れた。どうりで歯ごたえのある熟語も
ある中で、息子でもすらすらと読めたはずだと合点がいったと同時に呆れた。
まあそれでも物語の後半には息子も魅了されて、もう一度読み直したという今までにない
熱心な読書ぶりを見せたのだから、ちょっとずるい読書もそれに免じて許してやろう。

 この『君の名は。』は本のジャンルで言うのなら何になるんだろう。
アニメーションという表示が主で、特にジャンル分けは見当たらないのだが、私としては
「SFファンタジー」といった解釈である。息子においては、今回は同年代の少年少女と
同じように、この物語にたまたまはまっただけの様子と見受けられるが、
この年代の頃の私はこの「SFファンタジー」にかなり入れ込んでいたと言っていい。
とりわけ眉村卓(まゆむらたく)の小説に熱中していて、当時の眉村の作品のほとんどは
読破していた。眉村卓と言えば、映画にもなった『ねらわれた学園』がもっとも有名かと
思われる。テレビドラマ版ではヒロインに原田知世が、映画では薬師丸ひろ子が出演している
ことから、当時としてはかなり力の入った映像化であることが覗えるというものだ。
そんな眉村ブームも、他の流行と同じように数年を経て下火となり、眉村は今いずこと
時折思い出していた頃に、癌で余命宣告された妻へ毎日小さな物語を送ったという実話、
「僕と妻の1778の物語(1778日1778話の小品を送ったという)」が話題となり、
SMAPの草薙剛主演で映画化までされて、やはり実力のある作家は必ずまた復活する
もんだとひどく感心したものだった。それ以来、また眉村ファンの気持ちが再び芽生えて、
今は読売新聞の人生相談で眉村が答えている時は必ずその意見に目を通している。
ところでこの読売新聞の人生相談コーナーは私にとって日々の楽しみともなっている。
嫁と姑、恋愛に不倫に浮気に結婚と離婚、進学や退学、職場での人間関係やセクハラに
パワハラ、育児相談に家庭問題、果ては生の意味や死の意義を問う者などなど、
日替わりで現れる人間の悩みの千差万別さにほとほと感心するとともに、毎度識者の
回答蘭は読まずに、自分ならどう答えるのかを考えることを楽しみとしているのだ。

 そんな悩みの中で、受験や恋愛、友人関係やいじめ、お金や常識についてなど、
息子の年頃に相応しいテーマの時は新聞より切り抜いて息子に渡し、回答欄を読まずに
自分なりに考えをまとめるように言い付けている。ちょっとでも文章に触れることと、
現実的な問題に対して自分でものを考える習慣が付けばと願う親心である。

 さて、息子と『君の名は。』の感想言い合い会を開いた。
まずは息子に述べさせると、相変わらずの一本調子な唯の「面白かった」の一点張り。
そしてせいぜいヒロインのようなかわいらしい彼女がほしいと言うのがやっとだった。
私は先のジャンル分けで触れたように、基本空想科学ロマン小説であるので、
現実と比較すれば確率上の問題や、都合のいい展開など、突っ込みどころは沢山あるが、
中でも最後の終わり方に少し違和感があると言った。いくら心が通じ合った者同士としても、
人の溢れる大東京であんな再会の仕方は不自然だろうと思ったからだ。
そして締めくくりに息子にはこう告げた。
「物語や小説において、その作家は神となる。神である作家は自分の好きなように
世界を作り、登場人物を動かすことができる。その特権は誰にも邪魔されることはない。
しかしその物語や小説が世に出た後に、その作品についてあれこれと言えるのは読者となる。
いくら作者が自分の作品について語っても、その価値を決めるのは読者なのだ。
物語や小説の内容に関わらず、例えどんなに幸福な話でも、例えどんなに酷い話でも、
時に短く、時に長い話でも、それが読むに値するかどうかを決められるのは読者だけなのだ。
だから作者は書く自由を、そして読み手はその感想を語る自由をそれぞれ持つと言える。
そして唯一、作者にとっても、読者にとっても共通する同じ思いは、その作品が
書いても読んでも面白いかどうかに尽きる」と。
「だから錬!お前は読んだものすべてに好きなように意見してもいいんだ。
作品そのものを変えることはできないけれど、そこに赤いペンで好きに落書きしたり、
自分なりの訂正を書き込む自由はあるんだよ」。
口を開いたこけしのように突っ立っている息子に私の真意は届いたのであろうか?
それと『君の名は。』には、ためになる熟語や表現手法がたくさん見受けられたので、
俺も3度目の読みに挑戦するから、お前もゆっくりとよく噛んで食べるようにして
もう一度読み直してみろと言い付けた。

 最後に、今ひとつ納得のいかないことが残っていたので再び息子と向き合った。
我が子を疑うというのも何ではあるが、本当に自発的に自ら本を手にとって今回の読書に
望んだのか信じられなかったのである。オタマジャクシは急にカエルになるわけではない。
足が生え、次に手が生え、そして尻尾が引っ込んでカエルになるのだ。
「お前、本当に自分で読みたくってこの本を買ったんだな?」と改めて問い質すと、
「話題の『君の名は。』の映画を見に行きたいって言ったら、まずは本から読めって
ママに買わされたんだよ。」だって。やっぱりそんなことだろうと思った。
まあしかし、この作品を踏み台に、読書の世界へ飛躍してほしいものだ。


■ 執筆後記 ■

『君の名は。』後日談

大ヒットとなったアニメ映画『君の名は。』。
興行成績がとてもよかったために
随分と長い劇場上映延長の後に、
やっとレンタルDVD屋に並んだので
借りてきて家族三人で映画鑑賞した。
ただ嫁と息子は、別の機会にすでに鑑賞済で、
初めて映画を見るのは私だけであった。

鑑賞前の嫁の前口上での評価は悪かった。
「なんだか、どこが面白いんだ?」というのである。
もっとも嫁はもともとロマンとか、ファンタジーとかに興味の無い、
超現実主義者であるので、すべてにおいて冷めた目で見ていたのだろう。
隕石が落ちてくるだの、体が入れ替わるだの、大都会で再会するだのといった
話には、はなっから乗せられる気はさらさらなかったようだ。
(現実主義者という点では、私も同じではあるが、
私の場合はSF小説の影響も受けて、非現実も入り込む余地はある)

実際に鑑賞してみると‥、
私としては評判通りとてもいい映画であった。
とりわけ間に合うのか、間に合わないのかといった場面に
小説を読んで先を知っているにも関わらず、どきどきした。
ただ、個人的には小説の方が良かったように思えた。
物語のクライマックスに繋がる途中途中の伏線が、
小説の方が丁寧に描かれているし、
本馴れしている私としては、自分の頭の中であれこれ
場面場面を空想する方が、映画以上に鮮やかに映え、心に響いた。
原作者、新海誠の文章表現が、軽快なテンポと表現にも関わらず、
優れていた結果とも言えるだろう。

映画を見終わった後、ソファーで横になっている嫁を見ると、
軽いいびきをかいて寝ていた。
「おい!終わったぞ!」と声を掛けると、
ビクッとして起き出して、
「あれ!?もう終わったのか?また同じところで寝ちまった」とほざいた。
あれこれ悪い評価を言う割には、ちゃんと見てもいないのだった。
なんと失礼な!ホント、一緒に映画館で観なくて良かった。

そんな嫁の態度に、昔親父と映画館に行ったことを思い出した。
「ゴジラ対へドラ」の映画だった。
途中、ゴジラが尻尾を抱えて、口からジェット気流を吐き出し、
空を飛ぶシーンがあった。
後にも先にも、ゴジラが空を飛ぶのは初めてだった。
興奮した私は、隣の親父に、
「ねえ、見て、見て。ゴジラが飛んでいるよ」と話掛けた。
改めて親父を見ると、いびきをかいて寝ていた。
それ以来、二度と親父出掛けることはなくなった。

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