旅の空色


2016年 8月号


夜行バス

 大宮駅西口21時発。
南紀行きの夜行バスに乗り込んだのは私たち家族3人だけだった。
最初っからバスの窓という窓はカーテンできちんと閉め切られてあり、
運転席との境にも大きな2枚のカーテンが、まるで劇場の幕といった具合で重なって
客席とバス前面を仕切っていて、ぐるりとカーテンに囲まれた車内で、外の様子は一切
うかがい知れないといった具合にちょっと驚いた。座席も普通の路線バスや観光バスと
異なって、横に3席がそれぞれ間合いを取って独立し、しかも全くの横並び一列といった
わけではなく、あえてずらして並べてあって、席それぞれのプライバシーを可能な限り
守るべく工夫がなされていた。ただ昨今は、さらに座席の独立性、居住性を高めるべく、
それぞれの座席をさらに各個にカーテンでくるんだり、また座席もゆとりのある大きさに
加えて前後の空間も確保して、背もたれをかなり平に寝やすく倒せる配慮がなされていると
テレビなどで見ていたので、私たちの乗ったバスの座席の狭さや、席ごとの仕切りの無さ
からすると、一世代前の旧式の夜行バスであることも知れて、少し残念な気持ちになった。

深夜急行の夜行バスに乗るなど30年ぶりのことだった。
当時はスキーブームの真っ直中で、夜の新宿高層ビル街のそこかしこを出発拠点に、
長野の野沢温泉や赤倉温泉、福島の裏磐梯や山形の蔵王温泉、さらに遠く岩手の安比高原と
とりわけスキーシーズンの週末は夜な夜な蜘蛛の子を散らすようにスキー夜行バスが
大勢のにわかスキーヤーを乗せて各地に旅立ったもので、私もそのミーハーのひとりだった
というわけだ。往時の夜行バスは普通の観光バスを転用したものが当たり前で、
横2席2席の4席シートからすれば、この旧式の夜行バスでも一応それなりの工夫はあるし、
トイレも付いていてだいぶマシになっていると言える。しかしそれにしても、
シートが手狭に感じられて、背もたれの倒しにも中途半端な限界があり、これで本当に
寝て行けるのかと不満も感じた。私の前の席には中学2年生の息子が居て、
こちらはどんな場所でも1分で寝られるという特殊能力があるのでさほど心配はないのだが、
斜め横に、息子を見守る場所に居る嫁の方は、やはり座席の狭さが気になるらしく、
ごそごそと寝る体制をいろいろ試した後に、振り返っては鋭い眼差しで私を睨んで、
もっとマシな環境のバスはなかったのかと言わんばかりの無言の抗議を送りつけてきた。
やがてバスが走り出して大宮駅前の停留所を離れるとアナウンスが流れる。
「本日はご利用ありがとうございます。このバスはこれから池袋、新宿、横浜で
お客様を乗せた後、目的地の南紀に向かいます。本日はお陰様で満席を予定しています」。
ほとんど貸し切りかと思ったのもつかの間、席は決まっているとはいえ、
その内にすし詰め状態になるのかと想像しただけでもやはりげんなりした。
加えて期待はずれの座席の居住性に独立性、そして嫁の不満とがこれからの旅路に暗雲を
匂わせて、それらすべて断ち切るべく背もたれを目一杯倒しては、
降参とばかりに顔にタオルを投げかけて、さっさと狸寝入りを決め込むこととした。

 今回の旅で夜行バスを選んだのは、金銭的な節約志向もあったのだが、
地理的な問題の解消の意味合いも強かった。今回の目的地である南紀、和歌山の新宮市
近辺は交通の便がお世辞にも良いとは言えないのだ。仮に電車で行くとしたら、
朝一の電車に乗って、東京〜名古屋を新幹線で移動、名古屋で急行電車に乗り換えて
新宮まで3時間半、総行程8時間はゆうに掛かり、現地着は昼過ぎの2時頃となる。
羽田空港7時25分始発の飛行機で南紀白浜空港に降り立っても、白浜から新宮まで
特急電車で1時間半と、こちらも到着は昼過ぎである。つまりは電車にしても飛行機にしても、
移動に旅行初日の半日以上を費やさねばならないのだ。その点夜行バスならば、
予定通りに走ってくれれば、朝7時40分に新宮駅前着といった具合で、その日丸1日、
無駄なく観光に使えることになるのだった。あとは自家用車で夜間行という手段もあるが、
この場合、夫婦代わり番こで運転すれば、深夜バス同様に仮眠は取れるし、経済的で、
かつ現地での足も得られることになる。ただ以前に、新宮の100km手前の三重・志摩まで
自家用車で行った時の経験からすると、体に掛かる負担が大きく、とりわけ旅行疲れの
溜まった帰路のことを考えると、二の足を踏む手段であった。加えて息子の一度飛行機に
乗ってみたいという希望が、行きは夜行バス、途中はレンタカー、帰りは南紀白浜空港より
羽田へ飛行機という今回のルートの決断を後押ししたのであった。

 さすが新宿ではどっと人が乗り込んできて、バスはほぼ満杯となった。
乗り込んできた人達の顔をいちいち確認して目を合わせるのは嫌だったので、タオルを顔に
掛けたまま、ふんぞり返って寝たふりを決め込んで出迎えたが、耳だけは人々の動きを
追っていた。不思議に思ったのは、入って来た早々にトイレを使う人の多いことだった。
しかも若い女性ばかり。トイレぐらい乗る前に済ませて、わざわざバスの手狭なものを
使う必要はないのではと思うが、女性同士、話に花が咲いて、その余裕がなかった
のであろうか?そして我が座席の後にもやはりお客が座った。賑やかなお客であった。
家族3人のひとり娘、年の頃は中学生くらいかとその甲高い声から推察した。
席が狭いだの、寝る前に歯を磨いたかだの、お父さんはいびきに気を付けてだの、
ひとり勝手に父母の世話を焼いている。仕舞いには前の席が目一杯倒れているのを迷惑だと
小声で言い出して、母親にいいかげんに黙るようにたしなめられていた。
前の席とは私のことである。こういった夜行バスでは、座席を倒すのは座っている人の
権利なのだと理屈で考えて、そして馬鹿らしくもなった。ただでさえカーテンで覆われた
狭い車内で、狭い座席の定位置に押し込められた者同士で、これ以上お互いの気分を
害するのは、互いに利するものは一銭とてない。しかし同時にそんないざこざも
時たまあるのではないかとも想像できた。
 走る車の中でそう易々と寝れるものではないことは、友人の高級ワゴンなどでも体験して
いたが、夜行バスでも全く同じであった。特に睡眠の妨げとなるのは、タイヤのゴオっという
走行音と、道路のちょっとした段差からもくる車体の振動である。寝よう寝ようと
がんばっても、この音と振動が体を揺すり起こしてくる。しかし東京最後の停車地の横浜を
過ぎて東名高速道路に入ると、音も振動もぐっと鳴りを潜めて、滑るように走るバスに
身を委ねることができるようになった。

 気が付くと少し寝ていたようだ。小一時間くらいであろうか?
高速道路に乗って、ちょっと気が緩んだ瞬間に、すぽりと眠りに落ちることができたようだ。
目を開けて辺りを確認すると、軽い走行音以外は一切に静寂が支配していた。
斜め前に居る嫁も、他の乗客も、まるで死んでいるように静かに動かなくなっている。
やはり私と同じように高速道路に乗ってから、音と振動が小さくなった瞬間に、
催眠術の指の合図で眠るように、すべての乗客が眠りに落ちたようだった。
寝息やいびきの音さえ聞こえない静寂さに少し怖くなる。
この光景は夢なのか、現実なのか、このバスは本当はどこに向かっているのか、などと
寝ぼけ眼の幻想のためか、自問自答しつつ、身動きしないで、目だけでもう一度辺りを見回す。
カーテンのいくつかの細い隙間からは、高速道路の照明が、あたかも細長いセンサービームの
ように車内に入ってきて、車の走行に合わせて車内をなめるように後から前に移動しては
消えて、誰か生きている者はいないか、逃げ出す者はいないかと監視しているように思えた。
そんな恐怖の感覚は、今年1月に起きた軽井沢スキーバス事故をも思い起こさせる。
こうして改めて夜行バスに乗ってみると、見ず知らずの人々が、同じ箱の中に寄り添って、
ひとりの運転手に命を預けて、一蓮托生といった定めにある。あの凄惨な事故の後だから、
余計に安全性は確保されているはずだと、とりわけ大手のバス会社だから大丈夫だと、
安直に今回バスを利用したが、今こうして自由に身動き取れない自分や、嫁や、息子や、
その他の人々を見るに付けて、万が一を思って、後悔の念に駆られもするのだった。
しかし今更そんなことを考えても後の祭りいうもの。目的地まで無事に、ただ無事に着く
ことのみを祈る以外に方法はないのも道理で、この今の自分の状態は、これから魂を
洗われるための修練なのだとも考えて自分を落ち着けた。いにしえの人々は、
山あり谷ありの石畳を自らの歩で進むことで、現代の私は突っ走る箱の中で堪え忍ぶことで、
熊野に向かう覚悟を試されているのだなどとも考えていた。
そう言えば、今年はどこ行くの?とお客さんに問われたので、熊野三社詣でですと応えると、
前は伊勢神宮に行ったわよね、熱心ね、などと言われて、ひどく感心されたのを思い出した。
確かに3年前にお伊勢参りをしているが、それは式年遷宮という20年に一度という
イベントに魅了されただけで、お伊勢さんにしても、熊野詣でにしても、信心深さからの
決行ではない。今回も旅のもともとの始まりは、和歌山の秘境、北山村で行われている
筏(いかだ)での急流下り体験が始まりなのだ。しかしよくよく我が身を振り返れば、
先の山形の山寺参拝や、今後に高野山や比叡山を訪れてみたいなどといった密かな計画が
あることからすると、半世紀近く生きた今、人生の節目として神仏を崇めるこころが
自然と湧いてきたのかとも思われ、自称リアリスト(現実主義者)の俺が?と反論もしつつ、
相反する心掛けと行動に自分自身がわからなくなり、また可笑しくもなってしまう。
そんなたわいない思考を繰り返しながら、縦長の光が忙しく現れては消える静けさに包まれた
車内をぼんやりと見守っていた。まあ、詰まるところは、一度目が覚めたら最後、
今度はなかなか寝付くことは出来ないということであった。

 やがて何度かウトウトとしている内に、外が白んできて、
和歌山県の「栃原」というバス停で夜行バスは最初の停車をした。朝5時過ぎであった。
ここから目的地の新宮までは、バス停で10個ほど先で、残すところ2時間半ほどの行程
となる。もはや一般道であり高速で走ることはなく、普通の路線バスと同じ感覚の運行と
なるので、自然ほっとできた。バス停に停まる度に、少しずつ人が降りていき、
カーテンの隙間から縁もゆかりもないそれらの人々を目で見送る。
大抵の停留所は国道に並走する鉄道の駅と連結しているが、時に砂利採石所の真ん中や、
たんぼに囲まれたバス車庫に人を下ろす時がある。あの人達はこれからどうするのかと
確かめると、ちゃんと時間を見計らって現地の親や知人が迎えに来ている様子であった。
バスから降りた若い娘さんが、迎えに来た母親と手を繋いで車に向かう姿を見た時に、
この定期夜行バスが果たしている役割の大きさを実感できた。
一晩眠れぬ夜を我慢しさえすれば、遠い東京の地で働く娘に会うことができる。
もしくはお母さんの元へいつでも帰れる。そしてそんな再会や別れの姿を毎日目撃している
バスの運転手は、きっと自分のハンドルさばきの責務の大きさをを十二分に感じているに
違いないともわかった。

 途中、高速道路の事故渋滞で30分ほど余計に時間を食ったにもかかわらず、
新宮へはほぼ定刻通り着いた。嫁に夜行バスの感想を尋ねると、むすっとした顔をして
「眠れるか!」との一喝を頂いた。息子も「僕もあんまり寝られなかったな」と語っていたが、
嫁によればいびきをかいてよく寝ていたという。私としては‥、単調な行程ながらも
貴重な体験ではあったと思うと同時に、やはり年齢のせいか、若い頃とは、仲間内で
わいわい行ったスキーバスの頃とは違って、十分な睡眠を取れないのは体に堪(こた)える。
しかし疲れたなどと言っている暇(いとま)はなかった。これから新宮市の熊野速玉大社、
田辺市の熊野本宮大社、那智勝浦町の熊野那智大社の三社、総称・熊野三社を巡って祈願し、
魂を浄化してもらうのだ。言い伝えによると、熊野三社詣での暁(あかつき)には、
この世に生まれた時の清らかな心と体に戻れるという。また神様相手に寝ぼけ顔では
礼を失して、願い事もちゃんと届かないというものだ。俄然、やる気が湧いてきた。
せっかくここまで来たのだから、しっかりお願いして、お清めして、元を、
いやそれ以上のものをもぎ取らねば丸っきりの損というものだ。

果たして、こんな私でも本当に生まれたままの清らかな心身に戻れるのであろうか。


■ 執筆後記 ■


夜行バスでの目的地、JR新宮駅前近くにある小さいながらも立派な中華門が建つ
「徐福(じょふく)公園」。いにしえの昔、中国からの渡来人・徐福が、この地に
いろいろな文明の利器を伝えたのを記念して整備されたそうだ。
私達家族はここで夜行バスの疲れを癒やしつつ、途中のサービスエリアで買った
朝食を公園のテーブルで食べた。
そんなスタイルをとったのは、下調べの時に、JR新宮駅の周りではコンビニや
早朝より食事のできるお店が見当たらなかったためであった。
実際には、駅前に早朝より営業している小さな喫茶店が1軒あり、
また踏切を渡って少し歩いたところに、家族経営とおぼしき手造りパン屋が
2軒あるのが見受けられた。そんな事情が分かっていれば、きっと手造りパンが
朝食となっていたであろう。

徐福の記念像とともに息子・錬↓


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