旅の空色
2016年 5月号
短編 『山寺』 第二弾
「ここでしばし休憩〜」。
700段目から800段目辺りであろうか。山頂の寺院の入り口となる正門「仁王門」に
着くと友人はそう勝手に宣言して、門の欄干に寄りかかって眺望を楽しみ始めた。
休み休み登ってきたとは言え、さすがに息もだいぶ上がってきていて、暗黙の内に
その提案に従う。仁王門(におう)と言うからには、片や口を開け、もう片方は口を
一文字に固く結んで、あの”阿吽(あうん)”の呼吸で知られる二体一対の守護神、
仁王様が祀られているはずであろうが、最初に目に止まったのは門の内側で、
左右向き合って通行人を見張っている三体ずつのさほど大きくない木像であった。
それぞれ大陸伝来というか、中国の王や高官といった出で立ちの長方形の帽子に幾重にも
重ねた着物を羽織った木像で、一人は一段高く鎮座し、もう二人は下段に左右に控えて、
調和の取れた三角形といった案配で安置されている。何の意味があるのかと休憩を兼ねて
それら6体の木像をしばし見比べ眺めていると、どうやら門右側三体の上段の一体は
閻魔大王(えんま)らしいことに気が付いた。普通、お寺の正門は、境内に邪気や邪鬼が
入り込むことを嫌い、そのための守護神が祀られる曰くがあると思うのだが、
それとは別になぜここに現世での量刑を裁く閻魔大王がいるのかさっぱり合点がいかなかった。
そんな観察と思案を巡らしていると、友人が居るはずの見晴らしの良い門の欄干の方から
人の話す声が聞こえる。誰と話しているのかと門の角から覗き見ると、そこには友人の他に
黄色いジャンパーを着て、キャップ帽を被った男性がひとり並んで立っていた。
「ここら辺の岩山、ぼこぼこと穴が開いているでしょう。
角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)と言うんです。火山から降り注いだ火山灰が堆積して
固まって岩になったのが凝灰岩なんですが、そこに別に固い大きな火山岩が混じっている
ものを角礫凝灰岩と言うんですな。それが長い年月の内に、風雨にさらされて風化して、
やがて露出した固い火山岩がぼろっと岩肌から落ちて、その火山岩のあった名残が
あの様な浅い空洞としてぼこぼこと残る訳です」。
かなり詳しくこの山寺のことを知っているひとのようだ。不作法とは知りつつも、思わず
ふたりの会話に割って入ってしまった。
「そのできた空洞に昔は死者を弔ったと聞きましたが‥」。
その男性は振り返り、少し瞳孔を開いて突然の侵入者と質問に驚きを表しつつも、
口元にはわずかに余裕の微笑みも見えて、質問に対する歓迎の意がありありと伝わってきた。
「よくご存じですねえ。そうなんです。昔は、と言ってもかなり昔のようですが、
亡くなった人をこの岩山に持って来て、あれらの空洞に納めたみたいで、いまでも
あれらの空洞では人骨が見られるようですよ」
的確な受け太刀に満足と興奮を覚えつつ、続け様に先程の閻魔大王のことについて切り込む。
「この門の内にある木像ですが、たぶん閻魔大王だと思うんですが、どういった意味合いが
あるんですか?」。男性は改めて身構え直すように真正面に対峙し、
笑みで顔を崩しながら話し始めた。
「そうです。あれは閻魔大王です。ここ山寺はこの仁王門を境に、
これまで登ってきた山道が地獄の道で、そしてここから先の寺院内が極楽浄土と
分かれているんです。この門で閻魔大王の裁きを受けて極楽へ入るという意味で、
参拝客を見守る形で門の内に閻魔大王が祀られているといった訳です。
登って来る途中に地獄の婆さんのほこら、姥堂(うばどう)もあったでしょう?」。
「地獄の婆さんって、三途の川を渡った後に、死者の衣服をすべて剥ぎ取って、
その衣服の重みで罪の重さを量るというあの婆さんですか?」
男性は笑って頷いている。
そう問われてこれまでの登りの道の記憶を辿るが、さっぱり憶えは無かった。
途中に「せみ塚」があったのは記憶しているが、ああ、松尾芭蕉の俳句から出た
”蝉”の鎮魂碑だなっと連想してよく覚えていただけであって、後はただただ息を切らしつつ
下を向いて登ってきたので、気が付く余裕もなかったのだなと勝手に自分を納得させる。
ところでこの男性、いかにもあれであると分かっていたが、やはり確かめずには
おけなかった。
「失礼ですが、あなたはここのガイドか何かをされている方ですか?」と尋ねると
男性は「そうです」と応えて、3日後に予定されているバスツアーのガイドをする前に、
団体客に先立って山寺の道の状態など予め視察に来たのだと語った。
どうやらたまたまこの幸運に出くわしたらしい。これぞ正に地獄に仏。胸の内から思いの丈が
ふつふつと湧いてきて、今にも口から溢れんとしていた。
『「不滅の法灯」って本当にこの山寺にあるんですか?』
『それは今でもどのように守られているんですか?』
『それを見ることはできますか?』
『円仁の骨がこのお寺の奥にあるという云い伝えは本当ですか?』
『それは今どこにあるんですか?』
『それを拝むことができるんでしょうか?』
聞きたいことは次々と浮かんでくる。
このひと気の無い、閑散とした山寺で、冬籠もりで閉ざされたお堂群も沈黙したこの地で、
ただただ山を登り、展望台の「五大堂」からお決まりの景色を眺めて下山するだけだろうと、
わざわざ冬の山寺に来た使命の達成を半ば諦めていたところに、なんたる巡り合わせ、
縁(えにし)であろうか。友人よりも、さらにひと回りくらい上の、白とグレーの混じった
髪がキャップ帽からはみ出す初老のその男性は、次々と口から踊り出る質問にとても丁寧に
応じてくれる。それはガイドとしての当然の行いというよりも、普段には無い、
変化球に富んだキャッチボールを楽しんでいるような、自らの技量を試されつつも、
爽やかな汗をかくといった楽しげな表情が男性にありありと覗えた。
”禅問答”のような、正に”阿(あ)”と問えば”吽(うん)”と応える質疑応答は、
仁王像、阿行(あぎょう。仁王像二体一対のうち、阿と口を開いている方の木像)の
見守る前で30分ほど続き、知りたかったことすべてを手に入れることができたのだった。
その問答の間、友人はというと、変わらない姿勢で欄干から
だまって景色を眺めている。おそらくは男性との会話は、半分聞いているか
聞いていないかといった具合だろう。それでいいのだ。お互い気兼ねなくそれぞれのペースで
付き合えるからこそ、今までもこれからも一緒に出掛けられる。
ところで肝心要の今回抱いてきた使命への応えであるが、ガイドの男性によると
だいたい以下のようなものであった。
まず「不滅の法灯」は、やはり麓の根本中堂の中に確かにあってお寺を支える人達によって
今でも大切に守られているそうだ。冬期以外は根本中堂の扉は開放されて、お堂の中を
拝むことができるが、ただ「不滅の法灯」はお堂の柱か仏具に隠れて表からは見ることは
できないという。お寺の人に頼めば、もしかしたら内側から拝ませてくれるかもしれない
とのことだった。
次に「円仁の遺骸伝説」であるが、やはりその伝説を確認すべく、およそ70年前の
昭和23年に山の奥にある窟が本格的に調査されて、実際に木棺(木製の棺桶)と
数人分の遺骸が発見されたそうだ。その中に大腿骨(股から膝にかけてある人体を構成する
骨の中では最も長い骨)1本のみの骨があり、どうもそれが円仁の分骨された骨だと
信じられているらしい。というのも円仁は本山である比叡山延暦寺でその生涯を閉じて、
その遺骸は比叡山の墓に埋葬されたのだが、円仁が生前に数百と寺の開山に関わった中でも、
とりわけ山形の山寺に対する思い入れが強かったと伝わっていて、円仁の遺言により、
その骨の一部が山寺の納められたというのが山寺の円仁の遺骸伝説の始まりである。
発見されたその1本の大腿骨が科学的に円仁のものと確認されたわけではないが、
かなり太い大腿骨だそうで、それは歩いて長旅をした者の特徴を顕著に現していると
考えられ、円仁の骨に間違いないとの結論に至ったようだ。
発見されたその大腿骨と木棺は、当時しばらくは麓の宝物殿で展示公開されていたそうで、
その後元の窟に戻され、入り口は鉄板で固く封鎖されて、今では見ることはできないという。
現代のようにDNAの判定による科学的根拠がないので、その大腿骨が本当に円仁のものか
ちょっといぶかしい感も残るが、その土地の人がそう信じて疑わないのだから、
よそ者があえて下世話な突っ込みをする必要もないというものである。
それら知りたかった話題の他にも、この山寺が4つの家族で代々守られていること、
その4家族は山頂の寺院内に居を構え、それぞれ違った仏様を祀っていること
(性相院、金乗院、中性院、華蔵院という小さな住居兼寺院を構えている)、
そして代々受け継がれた密儀として4家の当番制で毎日写経が行われ、その経文が
古い納経堂に納め続けられていることなども教えてくれた。
その納経の密儀、定められた者しか行えない秘密の儀式もなかなか興味深い内容で、
写経にあたっては一切穢(けが)れたものは使えないということで、
天然石で作られた硯(すずり)に、天然の墨石、天然素材の手すきの紙に、
筆も獣の毛を使わない、植物の茎をほぐして縦の繊維質を毛に見立てたものを
使うといった徹底ぶりらしい。
毎日数行のお経を記す作業は、天然石から墨の色合いを摺り出すのに
大変な時間が掛かるそうで、日々の写経の密儀は丸1日を要するそうだ。
誰が言い出しっぺかは知らないが、大変な宿題を後生に残したものである。
また先に山頂にはお寺を支える支院の4家族が住むと紹介したが、その家族の子供達は
毎日この山を降りて登って麓の学校に通学しているという。この山の家族たちこそ
代々太い大腿骨を受け継いでいるのではないだろうか。
楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。
横で山寺問答を見守っていた仁王像・阿行がその”あ(阿)”と言っていた形でもあった。
さすがに小半時、30分ほども話に付き合わせているので、そろそろ潮時かと、
「とても勉強になりました」と深く一礼してその場を締めくくった。
偶然に出くわしたガイドの男性のお陰で、今回の使命をほぼ果たすことが出来て、
つい先程まで心の中を覆っていた陰りは雲散霧消(うさんむしょう)し、
突き抜けるような青空といった晴れ晴れとした心持ちとなって、山の空気も軽く爽やかに
そして美味しく感じられて、何度もゆっくり深く呼吸をした。
「お待たせしました」
と友人に告げて、仁王門を改めて潜り、山頂の境内へと登る。
なるほど、門を抜けたところからは、階段も段差面にも綺麗に研がれた石材が整然と
使われていて、それまでの野趣溢れる土と自然石の山道とは天と地の差といっていい程
異なる趣きになっている。ずっと昔、この山寺に来た時も、何となくその景色の変わりように
気が付いたのかもしれないが、まさか天国と地獄を表した差だとは、初めて知って
感心するばかりであった。段の角も直角に研ぎ澄まされた石段をくの字に100段ほど上ると、
少し開けた傾斜地に出て、参道に沿って売店を先頭に、性相院、金乗院、中性院と、
3つの支院が並んでいる。4つめの支院、華蔵院だけは、参道左側を少し登ったところに
離れて建っていた。売店がある様子から、ここが山頂参拝のメイン・ストリートであることは
明らかではあるが、ここもご多分に漏れず、冬の山寺の掟に従って、売店は休眠中、
支院においても、お守りや御朱印の販売窓口に人影は無く、ただ支院の表玄関より
それぞれがお祀りしている仏様のお参りができるようになっているだけといった
物寂しい空気が漂っている。
「俺はここで待っているから、奥見てきなよ」
友人はそう告げると、さっさと売店の長いすに収まってしまった。
やはり少し疲れていたのかもしれない。しかし友人がそうと決めたのだから気遣いは無用。
友人は行くと決めたらとことん付き合うが、自身が要らないと感じた時にはきっぱりと
断ってくるといった、時に面を食らうような白黒はっきりした人なので、
あえてあれこれと語る必要はないのだった。OKとだけ告げて参道の先を目指す。
やがてやっと辿り着いた参道の終点である「奥の院」も、伽藍は固く閉ざされていたが、
さすがの標高差からか、一面に均等に広げたような雪に覆われていて、
ご本尊を祀るお堂が雲上にあるような、天上界といった趣きをたたえていた。
(次号に続く)
■ 執筆後記 ■
作中紹介した閻魔大王が通行人を見守る仁王門を見上げる。
手前の石段は残雪がさほどではないが、
仁王門前後の石段は、段差を隠すほどに雪が凍り付き、張り付いていて、
今回の参拝の最大の難所となっていた。
物好きな冬の参拝には、雪用の靴は必修である。
山寺参拝の終点、ご本尊を祀る「奥の院」の景色。
さすがにここまでの標高となると、雪もたっぷりと残っている。
ここも冬は閉ざされていて、伽藍の中を拝むことはできない。
向かって右側の斜面には、階段状にたくさんのお墓がある。
山寺は基本、檀家(だんか)制度をとっていなかったのだが、
お寺保存の経済的事情から、ある時期を境に、
ここに墓地を造成したとのガイドの話であった。
「奥の院」の伽藍の参拝場から下界を望む。
仁王門を潜った先、四つの支院のある参拝道の脇にあった郵便ポスト。
平日と土曜の11時に集荷との表示があり、
週6回、この山の頂まで、支院の4家族のために郵便局が
わざわざ山を登って集荷にくるのかと疑わしく思ったが、
麓で郵便配達の女性を捕まえて確かめたところ、
やはり山寺担当の郵便局員がいるとの話であった。
冬期以外は参拝客も多いので、案外に郵便物は多いのかもしれない。
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