旅の空色


2016年11月号


再挑戦『人間失格』

〜熱烈歓迎!? 太宰治 〜

 テレビのドキュメンタリー番組で知ったことなのだが、隣国・中国には
『知日』なる雑誌があるそうだ。『知日』とは、むかしむかしに習った漢文の知識を使って
「知」と「日」の間に”レ”点を入れるとその意味が自然と知れると思われるが、
「日ヲ知ル」という語順となり、「日」とは日本のことだそうで、雑誌『知日』は
我が国・日本を紹介する専門誌なのだそうだ。中国国内では歴史教育において
反日感情が当たり前の風土にあって、この『知日』なる雑誌は日本を良い意味で紹介する
という形で中国では前例のない10万部を超える発行部数を誇っているという。
ただ10万部といっても中国の人口13億人超と比べれば、雀の涙程度の影響力と思われ、
そこら辺が今のところ中国当局(政府)の許容範囲に収まっているとも言えるかもしれない。
もともとこの雑誌を発案した敏腕編集者は特に日本贔屓という訳ではなく、気軽に行ける
近くの先進国・日本への旅行者が増える中での需要を見込んでこの『知日』を創刊した
そうで、10万部とは言え、熱烈な日本文化好きの中国人読者の支持を集めて、
十分採算の取れるこの部数に達したそうだ。しかしこの編集者もなかなか気骨のある人物で、
日本のおもてなしの心を紹介する回で、雑誌のサブタイトルに「日本に礼儀を学ぶ」
と付けた時には、礼節を尊ぶ本家本元の儒教を大切にしてきた我々中国人が
あの野蛮な日本人に学ぶ礼儀などあるはずはないと、ちょっとした物議を醸したそうだ。
まあ編集者としては、中国と日本のどちらかに礼節の分があるというわけではなく、
お辞儀の時の角度の決まりや、畳の上での両手の合わせた挨拶の仕方だの、
日本独特の挨拶方法の文化を紹介したかっただけであるようだが‥。
(そう言えば同じ日本人としても、NHKの朝ドラ「あさが来た」で、
ヒロイン・白岡あさ(波瑠 演)の旦那である白岡新次郎(玉木宏 演)が毎度やっていた
挨拶には感服した。両手を足と腰の付け根辺りにおいて、足を曲げて少し腰を落とし、
同時に軽く頭を下げる挨拶など私は今まで見たことが無かったが、なかなか上品で粋で、
そして何よりも美しく思えた。ただそれなりの品格が無ければ絵にならないとも思えたが‥)
 ところでこの『知日』の中国人読者は月に一回、中国の各大都市で愛読者の会を開いて、
雑誌のテーマとなった日本文化についての勉強や議論の機会を設けているそうで、
テレビカメラがお邪魔した北京の会場では、あの太宰治の作品について十数人の男女が
楽しげに語り合ったいたのだ。中国人に太宰治の作品が理解できるのか?ということにも
まずは驚いたが、その中の一人の若い女性は大の太宰ファンらしく、カメラに向かって
「”ウマレテゴメンナサイ”ジャナイヨ!”アリガトウ”ダヨ」と誇らしげに宣言した
のには度肝を抜かれた。もはやこの女性においては太宰に心酔すらしている様子なのだ。
彼ら太宰ファンの中国人たちが、真っ先に手にした太宰の作品は、どう考えても
「人間失格」と思われる。太宰治の作品を代表する、かつ集大成と言える作品だからだ。
その「人間失格」の中国語版を通読し、作者・太宰治を絶賛する彼ら中国人たちが
私には眩しく、また羨ましくも見えたのだった。

 なぜ彼ら中国人たちを私は羨望の眼差しで見たのか?
このエッセイにおいては以前、太宰治に関していろいろな角度で取り上げて、
その題材のために太宰治の作品群はもちろん、研究書も数冊は読んできた私であるのだが、
この『人間失格』という作品においてはどうにもいまいちその真価が定まらない私であり、
太宰治の考察においては宙ぶらりんの状態となっていて、残された宿題になっていたのだ。
正直、今でも私はこの『人間失格』は他人におすすめできるような作品ではない
と思っている。とりわけ思春期真っ直中の息子(14才)などには、百害あって‥と
とんでもないと思っている。言うならばアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』に並ぶ
健全な精神の育成にとってはそれに反する不良作品なのだ。しかしながら周知の如く
太宰治の『人間失格』は太宰の最高傑作であり、文壇においても賛否両論はあるものの、
大方秀作の誉れ高い作品であることは間違いない。また同時に、そんな優れた作品を
3度は読んでも、その真価を受け入れることが出来なかった自分は、なにかしら
自身の読解力や感受性に問題を抱えているのではないか?と不安の種でもあったのだ。
そんなモヤモヤを抱え続けている私の気持ちに、新風を吹き込んだというか、
もう一度向き合ってみろと背中を押したように思えたのが、満面の笑みで太宰の絶賛する
中国の若い女性であり、楽しく語り合う『知日』集会の中国人たちであったというわけだ。
(ちなみに見てはいけない、読んではいけないと言われると余計に見聞きしたくなるもので、
アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』は高校生の時に一読した。物事を皮肉たっぷりに
ブラック・ユーモアも交えて解説した辞書のパロディで、往時の反抗期の青年の心には
火に油を注ぐ効果があったのかもしれない。ただ1911年発行と今や古典と言える代物だ)

〜『人間失格』の突破口 〜

 さて、『人間失格』を再読、再考察するのはいいが、ただ再挑戦するだけではおそらくは
以前と同じ穴に落ちてしまうのは目に見えている。ひとつの方法として、本の最後に
書き添えられている「解説」を読むのもヒントになると思い、実際にちょっと試してみた
のだが、小林某(なにがし)という評論家の語る太宰の”遺書”としての『人間失格』論の
展開は、私には不自然に思えて、全く同調できない解説であった。
(小説の表紙に独特の絵を添える手法で、一時期昔の名作が見直され購入されるブームが
あったが、その時の太宰の『人間失格』にあった解説である。本はお客様より頂いた。)
確かに『人間失格』の脱稿の後に太宰は愛人の山崎富栄とともに固く紐で結び合って
玉川上水に入水しているが、この時太宰は新作『グッド・バイ』の執筆に取り掛かっていて、
プロの小説家として作品を途中で投げ出すのか甚だ疑問である。また持病の結核の静養の
準備をしていたり、前日に親しい編集者に相談があると訪ねたりしていて、
これから死のうとする人間の行動としては解せない点が多く残されている。
ちなみにその親しい編集者はあいにくの不在で、もし在宅していれば太宰を死なすことは
なかったと無念の想いを語っていたとあった。ではなぜ太宰は死ななければならなかった
のだろうか?これは文学界のひとつの謎と言えるが、私が総合的に推察するに、
愛人・山崎富栄との痴情のもつれの末に、偶発的に起きた事件だったと考えている。

 この時の山崎富栄の心境は、富栄の手記は、後に『太宰治との愛と死のノート』
として、長篠康一郎の編集によって文庫化されているのだが、そのおよそ文学とはほど遠い
最後は支離滅裂といった内容を見る限りでは、私には追い詰められていたのは山崎富栄の方
であって、その富栄に仕方なく寄り添う形で太宰は死に引きずり込まれたように思われる。
ただそれは太宰のやさしさからの結果ではなく、自業自得からの結末とも言えるだろう。
執筆途中だった新作『グッド・バイ』は、主人公のモテ男が、年齢を理由に付き合っている
10人の愛人と別れようと、とびきりの美人を金で雇って愛人を回り、この人と結婚した
からと別れを告げて回る物語である。ふざけた不埒な限りな話ではあるが、
モテ男の馬鹿さ加減が面白く、何よりも愛人との別れ際に女性の耳元で「グット・バイ」と
囁くのは何とも艶があっていい。これ程の作品を途中で投げ出すのか?というのも疑問では
あるが、実はこの小説の問題は別のところにある。10人の愛人の中で、最初のひとりに
別れを告げた後でこの小説は未完となってしまうのだが、その最初の別れを申し渡された
小説内の愛人は美容師だったのである。実は山崎富栄は当時かなりの技術力を持つ
美容師であった。進駐軍の基地でアメリカの婦人相手にかなりの稼ぎをあげていた。
その貯めたお金で2年は遊んで暮らせるくらいの貯蓄があった。やがて太宰と出会って、
身も心もそして高価な酒が飲みたい、美味い肴が食べたいという太宰にその貯蓄も捧げて
しまった。気が付いたら山崎富栄には太宰治以外には何もなくなっていたのだ。
所詮、愛人という身の上で、また同じ愛人の太田静子には太宰の子が出来て、
そして太宰にはちゃんとした奥方や家族もあって、富栄と太宰のふたりの関係はいつか破綻を
迎えることは富栄には容易に想像できただろう。そこに小説の中とは言え、
美容師と別れるという話を目にして、富栄の不安に拍車を掛けたことだろう。
ただふたりが死に至ったのは、富栄の追い詰められた事情だけではなく、
太宰の心身の疲れや、死へ向かうふたりの波長がたまたま重なってしまったなどの
複数の要因によるものと考えられるが、推進力として富栄の将来に対する不安が果たした
役割は大きかったと思われるのだ。山崎富栄は誠心誠意太宰に尽くした。
時には結核で溢れ出る血の塊が太宰の喉を塞いだ時に、自らの口を持って吸い出したとも言う。
そんな富栄に一緒に死んでくれと言われたら、太宰に断る理由はなかったのだろう。
ただ太宰はこれまで4度の自殺未遂の過去があるので、今回もどこかで助かるタイミングが
あるかもと考えていた節があったとの見解もある。そのひとつが親しい編集者への前日の
訪問だったとも言われている。話はだいぶ長くなってしまったが、あくまでも私の手前味噌な
結論として、小説『人間失格』と太宰の自殺を関連付けるのは、太宰を美化し過ぎだろう
と思われるのだ。私は太宰治の専門家ではないが、太宰の伝記やその作品群、
そして太宰の近親者や専門家の意見を通して私だけの太宰治の影を持っている。
また紹介した小林某という解説者も、どのような経歴や思想があるかは知らないが、
彼なりの太宰の影を持っているに違いない。ただどうやらそれぞれが作りだした太宰の影は
多少重なり合う部分はあるものの、決して一致することはない、相容れない強い色合いを
持っていることだけはわかったような気がしたのだった。詰まるところ様々な解説は
参考にはなるが、自分なりの納得の行く結論を見出せそうにないのである。
これは太宰ファンそれぞれが持つ事情でもあるだろう。

 ではどのような切り口で『人間失格』に再挑戦したらよいのか?
探し続けた挙げ句に私が最終的にそれと決めたのは戦争中に地元・青森に疎開していた
太宰治に愛人の太田静子が宛てた秘密の恋文にあった。その中で太田静子は太宰のことを
「マイ チェーホフ」と呼んでいて、どうやら太宰にとってもその呼ばれ方は
まんざらでもないらしく、このふたりの不義にとって「チェーホフ」は共通の価値観を持つ
キーワードとなっていたのだ。そしてその後の戦後、以前にこのエッセイでも紹介した
ように、チェーホフの戯曲「桜の園」を元に太宰は『斜陽』の構想に取り掛かることになる。
ところがこの『斜陽』は太宰の当初の思惑とは違った方向に迷走し始めるのだった。
自分の実家を題材にしようと思ったら、太田静子の日記の内容に新たな可能性を見つけて
その日記をベースに書き始め、いよいよ結末を仕上げようとした時には、思わぬ太田静子の
妊娠という現実に直面して、そのエピソードも取り入れるといった具合に、
作品の骨組みが継ぎ接ぎされた末に完成したのが『斜陽』だったのだ。
そこで私が推察したのは、太宰は当初の目的を完全に消化し切れていないという太宰の思い
であった。つまりチェーホフの「桜の園」をベースに実現したかった太宰の思想というか
今風に言えばDNAは、きっと次作の『人間失格』に注ぎ込まれるであろうということだ。
おそらく『人間失格』を読み解く鍵は、チェーホフを理解し、その色眼鏡を使って再読する
ことにあると。果たしてその方法が、その行き先が正しいかは分からないが、
今回私が決めた切り口はアントン・パーヴィロヴィッチ・チェーホフという
ロシアを代表する作家をまずは理解することと進路が決まったのだった。

 太宰の奥方・津島美知子が書いた回想記『回想の太宰治』には、太宰の前では
他の作家のことや作品の話をするのは太宰のご機嫌を損ねるので御法度だったとある。
にもかかわらず、先に記したようにチェーホフと自分を重ねることを大いに喜んでいたという
太宰の姿はチェーホフに対する太宰の別格視とともに、その影響力も垣間見えて、
チェーホフを糸口とする今回の切り込みは私なりの大いなる可能性を見出していたとも言える。
ただ私にとっての一抹の不安はロシア文学は高尚過ぎて理解できるかということであった。
文学についてのちゃんとした基礎勉強すら出来ていないことから始まり、ロシア文学の大家、
レフ・トルストイやドストエスフキーの作品ですら手にしたことはない私なのだ。
ロシア文学は全くのド素人で、どこから手を付けて良いのか分からない有様であった。
ところがそんな目標を立てると不思議なもので、というかその関連の情報に対して
鋭敏になるのかも知れないが、日曜日の朝刊の推奨本コーナーにぴったりのテキストを
見つけることができた。東京大学教授でスラヴ文学者の沼野光義(みつよし)先生が書いた
『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』という本と、その繋がりで同じ沼野先生の
『チェーホフ短編集』であった。これらはチェーホフの生涯や人物像はもちろん、
代表的な作品を中心に、時代背景や作品の内容を一般の人向けに丁寧に解説しているとある。
東京大学の門はとても突破できないが、今日から沼野先生の門下生と勝手に宣言して、
意気揚々と早速にそれらを取り寄せた私であった。次回よりは沼野先生の手解きの元で、
チェーホフの世界と驚くほど太宰と重なるチェーホフ像を紹介していきたい。


■ 執筆後記 ■

今、改めて考えて見ると、
太宰治の『人間失格』は、
手記の部の冒頭で「恥の多い生涯を送ってきました」と語るように、
本の主人公が自らの恥部を晒すことによって、読者を楽にする、
とりわけ羞恥心の強い、多感で尖った青年期の若人に対して、
「もっと気を楽に生きなよ」とやさしく諭してくれる
そんな効果があることに気付かされた。

若人にとって、恥ずかしいことは恥ずべきことであって、
表に出したくない、秘め事にしたいところを、
誰だって大なり小なり恥を持って生きているものだよと
あえて太宰が見せてくれる。
そして自分と似たような恥を抱えて、滑稽に生きている姿を見て、
読者は救われる‥、そんな構造になっている
とも最近考えるようになった。
つまりは恥の共感(Sympathy=シンパシー)である。

ところが私は中年期にこの『人間失格』を読んだために、
ある意味青年期の初々しい恥を持ち合わせていなくて、
長年溜まった恥の糞溜(くそだめ)の中から顔を出して
この本を読んだので、恥の共感が薄かった、
もしくはもはや恥を恥と思わない、生きる知恵を体得していて、
やはり今更恥に共感できなかった、
そんなところから、小説『人間失格』の真価が分からない
原因があったのでは、と自己分析している。

一時、厚かましい無遠慮なおばちゃんたちを
ゾンビのパロディー映画に引っ掛けて、
「オバタリアン」などと称して、茶の間の笑いを誘っていたが、
何のことはない‥、いい加減半世紀も生きると、男も同様、
自らの厚かましさに自分でも時々呆れる始末となる。

そうなると、人間最後には
「恥を恥とも思われぬ終生となりました」となるのかもしれない。
そのように考えると、『人間失格』の大庭要蔵は、
一見どうしようもないダメんず(ダメな男)に見えるが、
純粋でまっとうな人間だったとも見えるのかもしれない。


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