旅の空色


2015年10月号


藪蛇 (やぶへび) その1〜『斜陽』外伝〜

 「太宰治の『斜陽』ってどんな話だっけ?」
撮り溜めしたテレビ番組の一覧を見ながら、嫁が言葉を投げかけてきた。
NHKの番組「100分で名著」で、太宰の『斜陽』を取り上げていたようだ。
私は頭の中の引き出しを幾つか開けて情報を整理した後で、コーヒーを一口入れてから
ゆっくりと話し始めた。

「『斜陽』は読んで字の如し、太陽が傾いてゆく様を表した題名だよ。
今まで栄華の極にあったものが、やがて没落してゆく話。日本の敗戦後、貴族というか
華族と言われた特権階級の人々が、占領国・アメリカによる日本の民主主義化によって、
その地位を追われる話。その没落を華族らしく美しく表現しようとした小説なんだ。
元々はロシアの作家・チェーホフの書いた「桜の園」という小説が太宰のお気に入りだった
らしく、太宰はそこから『斜陽』のヒントを得たようだ。僕は「桜の園」は読んだことは
ないけどね。始め太宰は自分の青森の実家、アメリカによる大地主の解体を目的にした
農地解放で、たくさんの土地を失い、小作人たちからの収入が上がらなくなって、
あっという間に没落した実家の津島家を舞台に小説を書こうとした。
そんな構想を練っていた時に、以前より、太宰が家族と青森の実家に疎開していた頃より、
密かに恋文を交わしていた太田静子(おおた・しずこ)という女性が、
東京に戻ってきた太宰会いたさに訪ねてきたんだ。彼女との久しぶりの会話が弾んでいると、
彼女は日々の心境を日記に残しているという話が飛び出してきた。
しかも彼女は裕福な家の出であり、さらに歌人や小説家を目指した時期もあったので、
その文体はかなり期待が出来るし、太宰にとって太田静子の日記は喉から手が出る程の
一級の資料になったんだ。以前、太宰は女子中学生の日記を元に、朝起きてから夜寝るまでの
うら若き乙女の一日の心の変化を綴った「女生徒」という短編を手掛けていたので、
男性ではうかがい知れない女性視点の資料の価値は十二分に承知していたと思う。
執拗に太田静子にその日記を見せてくれるよう頼み込んだ。とりわけ太宰が通っていた
確か「コスモス」という飲み屋でのやりとりが面白いんだ。太田静子の祈りの形に合わせた
両手を自らの両手で包み込み、僕の作品のために君の日記が必要だと哀願した末に、
さらに口説き落とそうと、多分人前では言い出しにくい著作権料の分配の話でもしようと
したのだろう、飲み屋の奥座敷に太田静子を誘おうとした時にその事件は起こった。
飲み屋のママが二人の間に割って入り、太田静子向かってこう言い放ったんだ。
「太宰さんは普通の人ではありません。お嬢さんのような方が関わってはいけません」って。
普通、曲がりなりにもお客である人を名指しで、この人は普通の人ではありませんなんて
言うかな。しかも本人の目の前でだ。でもろくでもない呑兵衛どもを相手にしてきた
海千山千の飲み屋のママだからこそ、はっきりと警告できたとも言えるんだろうなあ。
そんな忠告もどこ吹く風と、太宰はさっさと彼女を奥座敷に押し込んでしまったけどね。
なんか現場で僕が見てきたような話だけど、太田静子の娘が母から聞いた話として
記しているエピソードなんだ。

 何年か前に、豊川悦治が太宰を演じたテレビドラマにも、スナックのような店で
太田静子に日記を懇願するシーンがあったんだけど、このスナックのママが割り込んでくる
シーンは残念ながらなかったなあ。このエピソードが明らかにされたのは近年、確か
2009年頃だったと思うので、まだ事実として検証が十分されていないのかもしれない。
ちなみに太田静子役は菅野美穂が、太宰の奥さん、津島美知子役は寺島しのぶと、
なかなかのキャストのドラマだったよ。

 ところで太田静子は日記は渡してもいいが、ひとつの条件を付けた。
それは自分が今住んでいる神奈川県小田原市下曽我の自宅、「雄山荘(ゆうざんそう)」
という別荘に太宰が自ら足を運んで日記を受け取りに来ることだった。
恋文をやりとりしていた男女が人目を忍ぶひとつ家で会う、その意味を語るのは野暮と
言うものだ。太宰は数日、静子の家で過ごした後、日記を借り受けて沼津の旅館で早速に
『斜陽』の執筆に取り掛かった。太田静子の日記は太宰が期待していた以上の内容だったと
言えるだろう。その証拠に『斜陽』では、部分部分、大胆にも日記そのものをほとんど
加筆・修正することなく大抜粋して載せているだ。悪く言えば盗用だけど、『斜陽』に
おいて太宰は、太田静子の日記を元にプロデューサーとしての役割もこなしたとも言えるかも。
太田静子の日記には、出戻りした自分の、また自分をただひとり頼りとする母との
二人暮らしにおける心の葛藤が綴られていた。母を愛し、同時に母を憎む、そして
母の死と共に、その葛藤から解放され、自由となるといった結末を迎える。
この話に僕は以前読んだ心理学者のエッセイに、「親の七掛け幸福論」なる仮説があった
ことを思い出したよ。母と娘の関係に於いて、母親は自分の幸福状態の7割程度しか
娘の幸せを願っていない深層心理を持つという仮説だ。そこには例え母娘でも、
本質的に女性同士として競争心があるらしい。ほんとかな〜と今でも思っているけど、
女性の心理は分からないし、どうなんだろうね。ちなみに余談だけど、その心理学者は
父娘の関係において「父親の呪い」なる仮説も同時に言っていたな。
良きにしろ悪きにしろ、娘は男性像において父親の影を一生引きずるって言うんだ。
これに関しては、なるほどと思うことが多々あるかな。
太田静子はそんな母への隠れた憎悪の象徴を自らの心の中に巣くう蛇として表現した。
実際にあった蛇についてのいくつかのエピソードを紹介した後で、いつのまにか自分の体の
中にも悪しき蛇が住み着き、その蛇がいつか母を食い殺してしまうのではないかと
心の葛藤を表現したんだ。文学を志しただけあって、さすがと思える表現力だと思うよ。
そして年老いた母の死と共に太田静子の日記は静かに終わる。
ただこの日記の中では、太宰の心を強く捕らえた重要な表現がもうひとつあったんだ。
それは太田静子が人間としての意気込みを語ったような独り言。
それは「人は恋と革命のために生まれてきた」という殴り書きだった。日記の通り、
母の死をもって愛憎の呪縛から解放されただけでは、この言葉が生きてこない。
おそらくはこの言葉を生かすために太宰は結末にかなり悩んだと思うよ。
そんな時分、運命というか、奇跡というか、予想だにしないことが起きたんだ。

 なんと太田静子が太宰の子供を妊娠したんだ。
上京してきた太田静子本人の口からその事実を告げられた時、太宰はどんな顔をしたんだ
ろうなあ。おそらくは平静を装って受け止めたと思うけれども、同じ男性として
気持ちを考え得るに、きっとぞっとしたと思うよ。これが本妻というか、嫁さんの口から
出た話だったら、夫婦としての営みの結果として授かった命に、驚き、重く受け止め、
義務と責任に気持ちを改めて望むところだろうけど、太田静子の妊娠は可能性はあった
にせよ、予想だにしない青天の霹靂で、くらくらとめまいがして、逃げ出したくなるような
気持ちだったんじゃないだろうか。もともと太宰にはすでに三人の子があったしね。
太宰の死後、友人たちによって書かれた太宰の評伝にはこの時の太宰の心境を
「三人も子供がいる上に、さらの余所にまたひとりとは‥、これじゃ俺は首つりだ」と
言ったとか、って言ってもすでに何度か自殺未遂の実績があるので彼一流のギャグかも
しれないが‥、またさらには太田静子のことを「子早い女だ」と、妊娠し易い女だと
困り顔をしたとか書いてあるけど‥、これも心中前に女子大生のお嬢様とも付き合っている
とか語っているので、持病に結核がある割には太宰自身が元気過ぎると言えるかもしれない
が、とにもかくにも太宰にとっては悪い意味でショックだったことは確かだと思う。
そしてさらにこの妊娠は太宰をややっこしい状況に追い込むことにもなった。
この時、太宰は後に一緒に心中することになる山崎富栄(とみえ)と半同棲的な生活状態にあったん
だけど、この妊娠の事実を耳にした山崎富栄に「私も先生の子供がほしい」と迫られて
いたんだ。とりわけ太田静子が子供を産んだ後、太宰が自分の子供だと認知して一筆したため、
さらに自分の名前の一字を取って「治子(はるこ)」と命名すると、山崎富栄は
手が付けられないほど逆上したんだ。富栄は本妻の美知子には一目置いていたんだけど、
その存在を”小田原のひと”とうすうす気が付いていた太田静子には、ライバル心というか、
敵対心満々だったんだね。しかも大事なペンネームの一字”治”を盗られて、
くやしくて、負けたようで、情けなくて、仕方がなかったんだと思うよ。
ちなみに太田静子と山崎富栄は同じ滋賀県出身で、隣町のような近さだったというから、
何かうかがい知れない因縁があったのかもしれないね。
荒れる富栄には「お前にはまだ”修治”の”修”の字があるじゃないか」と言って
太宰は慰めたと聞いたよ。”修治”とは、太宰治の本名、津島修治の名前なんだね。
なんだか話はすでに週刊誌ネタの域に入ってしまったけど、評伝ではこの状態に太宰が
「もうぐしゃぐしゃ」と嘆いていたとか書いてあったなあ。まあ自業自得だよね。
 太田静子も内心、この妊娠が歓迎されないことはわかっていたんだね。
太宰に妊娠を告げた帰り道、玉川上水に掛かる橋の上で「先生には迷惑はかけません」と、
まるでよくあるドラマの一場面のように、子供は自分ひとりで育てる決意を太宰に告げたんだ。
その瞬間!太宰治の脳裏に一筋の閃光がびりびりと走った。
『斜陽』の結末が生まれたんだ。
「人は恋と革命のために生まれてきた」、その実践が女手一つで子供を育ててゆくという
強い決意と重なったんだ。終戦後の新しい時代の風を帆一杯に受けて、堂々と進んで行く
女性の船出、その新しい価値観は、正に「革命」が起こった瞬間だったんだ。

 太宰治の『斜陽』はこれまで発表した太宰の作品とは比較にならないくらい
大ベストセラーになった。僕は日本の敗戦直後の雰囲気は、本やテレビで伝え聞く程度で、
実際のその時代の臭いや空気は分からないけど、僕が考えるに、この『斜陽』における
主人公の女性の姿、子供を抱えながらも自らの足で立ち、進んで行く勇ましさに、
当時の多くの女性の支持が集まったんじゃないかと想像しているよ。
僕の母のお父さん、僕にとってはおじいちゃんはビルマに、今のミャンマーに出征して、
有名な生き地獄、インパール作戦にも参加した人だったんだけど、戦争が終わって
帰国した後は、全く自信を失ったようで、酒と麻雀の日々が続いたと、おばあちゃんに
聞いたことがあったよ。おそらくは戦場で戦い、生き残り、帰国した多くの元兵隊さんが、
同じような無気力な心境で、その影で奥さんや子供たちは不安な日々を過ごしている家庭が
多くあったんじゃないだろうか。男が一番偉く、そして家族を守るという家長制度であったし、
ゆえに女性が働ける場所は限られていたからね。今以上に妻たちの不安は大きかったと思うよ。
そんな人々の目の前に現れたのが、自由奔放に、自らの意思で道を決めて、
妻子があるのにこの人の子供を産むと宣言して、生き抜こうとするジャンヌダルク、
新しい時代の風に旗を大きくなびかせて立つ、シングルマザーの姿だったんじゃないだろうか。

 雄々しい新しい時代の女性像に、人々が感嘆し、共感した結果の大ベストセラーだと
思うけれど、僕としてはその後の太田静子について、多少知ってしまったので、
話の結末については複雑な思いがあるよ。太宰の死後、太田静子は太宰に関する
一切の口止めと引き替えに、『斜陽』の版権から出たお金の一部を受け取って、
小田原で子育てをしながら小説家を目指す生活に入った。しかしその才能は芽を出さず、
やがて太宰の実家・津島家に太宰の子としての認知を求めたり、約束を破って
太宰の『斜陽』の元となった日記を『斜陽日記』と題して出版したりしたんだ。
おそらくは、良家の出とは言え、太田静子は金銭的に追い詰められていたんじゃないかな。
そんな努力と裏腹に、『斜陽日記』こそ『斜陽』の盗作だと非難されたり、
津島家にはなしのつぶてといった冷遇を受けたりと、結果は散々だったんだ。
貯金を取り崩しながら、なんとか体面を保ってきた太田静子だったけれども、
やがてお金も尽き、小田原の家も出ざるを得なくなり、その後は社員寮に住み込みで
雇われるといった生活になったという。少女時代は、滋賀の大きな屋敷で、
わざわざ京都から取り寄せたお菓子でお茶を楽しんでいたというから、
小田原を出た後の生活はかなり身にこたえただろうね。今もシングルマザーの生活について、
その生活レベルや、多忙さが問題になるけれども、行政の補助など何にも無かった時代の
太田静子の苦労は、人一倍のものがあったと思うよ。それでも娘を大学まで行かせた。
そしてその娘は小説家になった。最後は『斜陽』の読者諸君の期待通り、
「新時代の旗手」になれたんじゃないだろうか?」

話し終えて改めて嫁を見ると、冷ややかな目で、やや疲れを含んだよどんだまなざしで、
私を見つめている。「大まかに内容を言ってくれればいいだけなのに。藪をちょっと
いじったら、とんだ蛇が出てきたもんだ」と言って、手でしっしっと払われた。


■ 執筆後記 ■

 太宰治についての本は
お客様から頂いた河出書房 出版の
日本文学大全集34「太宰治」から始まり、
岩波新書 細谷博 著の「太宰治」、
幻冬舎新書 山川健一 著の「太宰治の女たち」、
講談社文芸文庫 津島美知子 著の「回想の太宰治」、
学陽書房 山崎富栄 著 長篠康一郎 編の
「太宰治との愛と死のノート」、
光文社文庫 松本侑子 著の「恋の蛍−山崎富栄と太宰治」、
朝日文庫 太田治子 著の「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」
以上7冊を読んだ。

これらが上記のエッセイを始め、
これまでに私の書いた太宰治関連の知識の源泉であるが、
読み違いや記憶違いで大なり小なり間違いがあるやもしれない。
そんな箇所が目に止まった時は、率直にご指摘いただくか、
私の不勉強を嘲笑して許して頂きたい。

私は太宰治という人物が好きにはなれない。
人間的に理性的に許せないのだ。
あまりにも破廉恥で、無責任であり、そして残酷でもある。
しかし憎いとは思わない。代わりに滑稽である。
ダメ人間ぶりが面白いのだ。
ただそれは隣の庭から見ているからであり、
もし自分の庭内での、身内でこんな人がいたら、
怒りを覚えるだろうし、至極不快に、また恥にも思うだろう。

しかしよくよく考えて見ると太宰治の滑稽さは、
ある種の共感の上にあるのかもしれない。
太宰の話に振る舞いに、自分の隠された破廉恥さ、無責任さ、
そして残酷さを密かに認めて、共感している気もするのだ。
太宰ほどではないにせよ、私自身の過去を懺悔させる、
恥部をさらけ出させるからこそ、酷い人だと
太宰が好きになれないのかもしれない。

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