旅の空色


2015年 3月号


ふたりで入門。『哲学の世界』

 入門して最初の大テーマは『愛』について。
「相思相愛」から始まり、「母性愛」、「家族愛」、「人類愛」、そして「不義の愛」。
『愛』と一口に言ってもいろいろな形があるものだ。やがて話は派生して『恋愛論』に及び、
「愛し方」、「愛され方」、「恋人の見方」、「ラブレターの書き方」、「嫉妬心」や
「悲恋の本質」、「性差について」、そして「恋こそ人生唯一の花」などなど。
大テーマ『愛』について全体の輪郭を掴むために、これら様々な小テーマを短編小説を元に
毎週末意見を交わしている。誰とそんなけったいな意見を交わしているのかだって?
今春中学生になる12才の我が息子とである。

 以前このエッセイにおいて息子に少しでも本を読むことの素晴らしさを伝えようと
私とふたりで読書会を開いていることを記したが覚えていられるだろうか?
そのための教材としたのが、あすなろ書房出版、松田哲夫 編の「小学生までに読んで
おきたい文学」という小説の短編集であった。昨年の6月頃から週末時間を作っては
週に3〜4作品を読んで、最後に私が作品毎に補足の説明を付けるといったことを繰り返し、
シリーズ全6巻、合計86作の短編を先月の2月にやっと読破することができた。
途中私でもちょっと手強く感じる作品もあったが、なにせ一読させることに意義があると、
息子をなだめ、時には叱咤激励し、父子の二人三脚はなんとかゴールを迎えることができた。
果たして息子に本の読解力は芽吹いたのだろうか?この試み以前よりは少しは読み取りが
良くなったようにも見えるが、まだまだ経験不足というか、読書不足からくる汲み取りの
甘さは否めない。まあそれでもまずはやりきったことが大成果であろうと息子を褒め称えた。
 この週末の読書会は通称「パパ塾」と呼んでいた。本当は息子自らが進んで学習塾にでも
行くような好学の精神に期待するのだが、そこまではやる気が出せないとの本人の意向なので、
その塾通いに代わっての「パパ塾」という次第である。ただ考えて見ると、この読書会に
毎週末2時間ほど時間を取られるので、実際の塾通いと労力はあまり変わらない気がするが‥。
まあそこら辺の計算が立たないのもまだまだ子供の証である。ちなみにこの「パパ塾」の他に、
宿題を中心にテキスト勉強をやらされる「ママ塾」もある。そー見ると結構熱心に
勉強させている家庭であると自負もしているが、いかんせん成績が伴わないのが不思議である。
まあそこら辺りを深く掘り返しすぎると、藪から蛇、親の過去の不出来が発覚したりして、
夫婦喧嘩の種火となりかねないので、あまり追求しないことが暗黙の了解となっている。
 ところで小学生までに読んでおきたい数々の文学を読むという大きな挑戦が果たされた日、
私は息子に心から賞賛を送るとともに、今後この「パパ塾」をどうしたいか尋ねた。
すると意外にも「続けたい」との答えが返ってきた。基本ゆるい塾なので、そのぬるま湯的な
勉学姿勢が気に入っているのか、それとも塾へ行かなくて済む伏線としてちょうどいいと
思案を巡らしているのかはわからないが、中学生になっても続けたいというのである。
まあ実際、中学生ともなれば勉強が難しくなるのはもちろん、クラブ活動も盛んになって、
「パパ塾」に割く時間があるかどうかはわからない。しかし息子が続けたいという意思を
持っている限りは、それに応えてあげるのも親の責務とも言えそうだ。

 さてそこで「パパ塾」を続けるに当たって先のように良いテキストはないかと
見てみると、正に待っていましたとばかりあった!あった!。同じ松田哲夫 編の
「中学生までに読んでおきたい哲学」シリーズである。哲学といってもソクラテスや
プラトンといった古典哲学やニーチェのような近代哲学といったロジカルで難しい言い回しの
ものではなく、人の生活や一生に根ざした人生哲学といった類いのものを、
先のシリーズと同様に短編小説を元に読み解くスタイルである。これなら続けて
読解力を身に付けられる機会となることに加え、多感な時期に足元を見失うことのない
適度な重石となるかもしれない。そして何よりも私自身が、改めて『哲学』という領域を
見直したいと考えていた矢先であったのもこのテキストを採用する決め手になったのだ。
2015年春、息子はピカピカの中学生になるのと同時に、私とともに『哲学』の門を
一緒にくぐり、哲学1年生にもなったのだった。

思わず赤面。ラブレターの書き方

 テキスト第一巻に森瑤子(もりようこ)の「手紙」という短編がある。
ここには女性から見た、また文学者から見たラブレターの書き方が指南されている。
恋文そのものにこそ主に恋したという筆者の体験談を元に書かれた短編で、恋文のプロが
その秘訣を教えてくれる、また男性としては恋文の受け手の女性の気持ちを知る機会ともなる、
非常に興味深い短編である。といっても何も難しい訓戒を並び立てているのではない。
秘訣は至極簡単明瞭、ただただ好きな相手のことのみを書けと説いているのだ。
思いを伝えたい相手の魅力を謳い捧げよと言っている。相手にあなたの魅力ある姿を仕草を
いつも見守っているということが伝わればいいという感じ。と同時に決してしてはいけない
注意点も忠告する。「好きだ」とか「会いたい」だとか、自分の思いの丈を間違っても
ぶつけてはいけないというのである。恋文はほとんどの場合、片想いから始まる一方的な
想いである。ゆえに「人は愛してくれる人を愛するとは限らない」ということわりに従い、
マナーとして、相手に重いもの(想い)を投げかけてはいけないと教えてくれる。
 私はこの短編を読んだ時、私にとって生涯一度だけ書いたラブレターを思い出した。
その内容は正に森瑤子が注意した通りのダメっぷりで、自分の気持ちばかり主張したもので、
当然の結末、恋はそれをもって終わってしまったのだ。森瑤子の短編は正に私を名指しで
書いているようなものだったのだ。と同時に森瑤子にとって生涯最高のラブレターと紹介した
箇所にも驚いた。それは今外で降っている雨を何気なく書いた散文的な内容だったそうだが、
その人の感性に森瑤子はたちまち惹かれ、恋してしまったそうだ。実は私にはこれに
そっくりなパターンもあったのだ。恋文として書いたわけではない、ただの遊びとして
自分ではよく書けたと思う作品を、家の中で聞こえてくる様々な雨音について語った作品を、
何気に異性に渡したところ、その女性の手紙への食いつきが異常によかったのだった。
当時は作品そのものの出来に高い評価をしてくれたとばかりと思っていたが、今思い返せば、
相手の女性が自ずから喜んで心の扉を開いてくれた瞬間だったようだ。
「もし今あのラブレターがひょっこり出てきたら、あまりにも自分勝手でヘタクソな内容に、
恥ずかしさのあまり、きっとパパは死にたくなる思いだよ」。そんな昔話を交えながら、
息子と『愛』のあれこれについて語り合っているこの頃である。


■ 執筆後記 ■

「LOVE IS BLIND」
=恋は盲目。
この愛シリーズの本において息子と語る時、
私は毎度この言葉を繰り返し唱えている。
よい意味と悪い意味を伝えるためである。

よい意味とは、もちろん恋の素晴らしさの側面。
人が生きている実感を、意味を強く感じる時であろうし、
さらに思い人と想い合うことができたならば、
世界が一番美しく見える時であろう。
正に恋はバラ色である。
自分を中心に世界が回っているとさえも思える時である。
息子には素晴らしい恋をしてほしいとも願っている。

では悪い意味とは‥。
恋にはたくさんのエネルギーを必要とする。
日毎相手のことを想い、やがて想いが通じた後も、
お互いの想いをさらに深めるために
たくさんの労力と時間を費やすものである。
平時ならそれもいいだろう。
しかし自らの人生で大切な時期に、
分水嶺と言えるような大事な時に、
もし恋に落ちてしまったら
大切なものを捨てなければならない選択を迫られる。
もしその恋が本物ならなおさらで、
多くの場合、恋が勝利を収めるはずである。
恋はそんな魔性も秘めている。

そんな恋の抜き差しならぬ状態を
うまく話にしたのが、愛シリーズの本にある
中島らもの短編『恋のまたさき』と言える。
作中、中島らもは実話として
受験生から相談を受ける。
「ある女性に恋をしてしまった。どうしたらいいのか?」と。
中島らもの答えは開口一番「それは不運でした」であった。
もしその受験生の恋が本物なら、
日毎夜ごと彼女を想って受験に身が入らないはずで、
もし今は大切な時期だからと我慢できるなら、
その恋は思い違いとも、恋に似ているが恋ではないと断言できる。
ただ思い詰めて相談してくるくらいだから、
その恋はおそらくは本物であろう。
そんな彼のタイミングの悪さを、中島らもは「不運」と評したのである。
本物の恋は、火が付いたら最後、乾いた薪のようにメラメラと燃えだし、
愛しい彼女以外はもう何も見えなくなるのである。
他のものすべてを捨てるくらいの想いに見舞われるものである。
多少個人差はあると思うが‥。
まあ、それぐらいではないと本物ではないと言うことだ。

ただ、私が見る限り人間全員が全員、本物の恋を体験できるわけではない。
その人の持つ性質に由来するものもあるし、
生い立ちや環境の影響もあるだろうし、
何よりもタイミングと運もあるだろう。
そう考えると、一度でも恋と呼べる体験が出来たなら、
それは幸運と言えるのではないだろうか?

半世紀近く生きた私にはもう恋のエネルギーは残っていないようなので、
今後は息子の恋の行方を傍観して楽しむことにしよう。

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