旅の空色


2015年 1月号




卒業文集

 「僕の小学校6年間での一番の思い出は、音楽発表会でタンバリンを担当したことです。
最初はリズムを合わせるのが大変でしたが、みんなと練習したり、家でひとりで練習したり
してがんばったので、本番の発表会ではうまく叩くことができました。クラスのみんなで
ひとつになって、ひとつの音楽を作れたことがとてもうれしく、一番の思い出になりました。
音楽会の後、ある先生が僕のタンバリンを叩く姿が面白かったのか、上手だったのか、
僕のことを”ミスター・タンバリン”と呼んでくれるようになりました。最初は嫌な気も
しましたが、僕の自慢のタンバリンの演奏だったので、やがてその呼び名というか、
あだ名も好きになりました。今は胸を張って言えます。僕はミスター・タンバリンです。」

 息子から聞いた話を素材に、その情景らを想像しながら私が口で文章にすると、
それら一語一句を逃すまいといった具合で、息子は一生懸命にノートに書き写していた。
息子の卒業文集となる作文である。何のことはない。ゴーストライターは私である。
別の言い方ではインチキとも言える。あまりいいことではないが、息子にひとり任せると
一歩も進まないんだから仕方が無い。最後に「自分らしい作文になるように、
ところどころ書き直せよ」と忠告した。ところでこの光景、人の口から出た言葉を
正確に一語も漏らさずに書き留める作業を「口述筆記(こうじゅつひっき)」ということを
思い出した。大抵の物書きは、原稿用紙を相手にペンや朱書きで訂正や挿入を繰り返し、
時には原稿用紙を破り捨てたりゴミ箱に放り込んだりして一から書き直す時もある
といった具合に、七転八倒しながら自らの作品を仕上げるものであるが
(もっとも最近は訂正のし易いパソコン相手に書くのが主流であろうが)、
中にはこの口述筆記にて大作を仕上げる強者もいることを思い出した。
その一人が大家、太宰治である。どの作品がそれとは忘れたが、奥さんの津島美知子や
愛人の山崎富江が太宰の口から澱みなくさらさらと流れ出る物語を一語一句こぼすことなく
必死に書き留め、生まれた作品があるという。この逸話に、太宰の研究書にあとがきを添えた
ある女性ライターが一端の物書きとして太宰の口述筆記をぜひ受け持ってみたかったと
憧れを書いていたが、と同時に太宰の周りの女性の苦労を考え合わせると、やっぱり
自分にはできないとオチをつけていた。太宰の代表作のひとつ『富嶽百景』に
「富士には、月見草がよく似合ふ」というくだりがあり、それを書き留めた時に
妻・美知子が「月見草って夜咲くものじゃありません?」と聞いたところ、
太宰は「いいんだ。それでいいんだ」と静かに応えたという。文学においては人一倍
自負心の強い太宰相手に、これぐらいのやりとりができないと太宰の言葉を筆で受け止める
資格はないのかもしれない(このくだりは、昼間に路線バスから月見草が見えたという
光景であった)。
 そんな口述筆記についてのあれこれを面白く考えているうちに、やがて私の悪戯心が
うずいてきた。私は口述筆記を書き留めたノートを読み返している息子に向けて
再び口を開いた。「いいかあ。これから話すことはオフレコ、つまりここだけの話だ」
と言って息子の発表できない卒業文集の続きを語り始めた。

 「僕はミスター・タンバリン。タンバリンを上手に叩けることが自慢だ。
でも翌年の音楽発表会では僕はタンバリンの担当を外されて、縦笛=リコーダーの輪の中に
入れられてしまった。僕が一番上手に叩けるのに。リズム感ばっちりなのに。
おしりまで振ってノリノリなのに。その他大勢のリコーダーのひとりにされてしまったのだ。
先生のバカヤロー!○○○のバカヤロー!(○○○はある先生の影のあだ名)
僕はミスター・タンバリン‥だった男だ。」この”裏”卒業文集といえる草稿は、
息子の心の裏側を的確に捉えたらしく、息子は転がり回って大笑いしていた。

 私はこの音楽発表会を鑑賞したが、確かにやる気のなさそーな息子の顔がそこにあった。
息子の話では自分の演奏は悔しさの余りエアーだった、つまり吹いた振りだったそうだ。
なぜ今回は選ばれなかったのかはわからないが、息子のせっかくのやる気に水を差した
結果だったようだ。ところでこの音楽会の後に授業参観という流れになったのだが、
授業の始めに担任の先生が開口一番に「音楽会が楽しかった人〜」と聞いたところ
クラスの3分の1くらいの挙手があった。そして次に先生はなぜか「楽しくなかった人〜」
と聞いた。すると半分くらいの生徒が手を挙げた。その生徒らの顔を見ると
ほとんどの子がリコーダー担当で、その他大勢に埋没してしまうことに多くの生徒が
やり場のない不満を抱いていたようだった。私は不満の多さにも驚いたが、
さすが6年生にもなると自分の気持ちをはっきりと主張できるその凛とした態度に驚き、
と同時に戦慄も覚えた。普段見慣れている我が子より、たまに見る同じ年のクラスメートの
方が子供の成長を実感させられるものである。そしてもちろん息子も楽しくなかった方に
まっすぐに高々と挙手していた。
 そんなわけで卒業文集のネタとなったタンバリンは一番の楽しい思い出である一方で
悔しい思いも一緒に詰まった楽器になったようだ。そんな息子に締めくくりとして私は
「楽しかった思い出はもちろん、そうでなかった、思い通りにいかなかった、
時には忘れたいようなつらいものや大失敗といった思い出もあるものだ」と諭した。
「でもずっと未来に、あとあと振り返った時に、楽しいものもつらいものもみな一緒に
懐かしくなり、クスッと笑ってしまうようないい思い出になるよ」と告げた。

 今年も正月明けに2日間スキーに行ったのだが、2日目の滑り始め早々に足が辛いから
滑りたくないと息子が言い始めた。(えっ〜!リフト1日券買ったばかりなのに〜(>_<))と
内心思いつつも、無理に滑らせても危険なので、雪だるまでも作ってなさいと嫁とふたりで
滑ることにした。リフトでは嫁と「誰が主役でスキーに来ていると思っているんだ。
今更夫婦だけでわざわざ寒い思いをしに来ないぞ」などと息子の不満を語り合っていた。
2本ばかり嫁と滑った時、息子がスキー板を付けて下で待っていた。僕も滑ると言う。
てっきり私たちが楽しく滑るのを見ていてまた滑りたくなったのだと思ったら、
小さい子供たちが怖じけずに元気にカッ飛んで行くのを見て自分が恥ずかしくなったそうだ。
ふ〜んと私は素っ気なく返しながらも、マイペースだった息子がそんな競争心や羞恥心を
持つようになったことをたくましく感じたのだった。息子にはなんてことない旅行での
ひとコマであろうが、私には忘れがたい思い出となった。


■ 執筆後記 ■

 春に中学生になるにあたり、
息子には機会ある毎に進学の心得をいろいろと忠告している。
そのひとつが「友達を選ぶこと」である。
小学校では2クラス、70人程の学年で6年間過ごし、
みな和気あいあいと仲良く過ごしてきたが、
中学生になると近隣3校の小学校から寄せ集まり、
200人程の大所帯となるので、
自然と友達の輪は限られてくるものである。
加えて思春期を迎え、心身共に大人への変身に備えて、
とりわけ心が不安定になる中にあって、
友達からの影響や時には摩擦が
その後の人生に大きく影響を残す場合が多々あるからである。

そんなひとつの実例が私の中学1年生、
入学して間もない頃にあって、
今でもその時のことを鮮明に覚えている。
昼休み、クラスメートのひとりが教室のベランダから
下にいた3年生の悪口を聞こえるかどうかという小声で投げていた。
容姿についての悪口であった。
やがてやんちゃなクラスメートが数人そのいたずらに加わり、
そして私にも見て見ろよと促した。
誘われるまま私もベランダより下をちらっと覗いて、そしてぎくりと驚いた。
その相手は紛れもなく小学5年生の頃、
お金を寄こせとからまれて、
きっぱり断ると数発殴られた筋金入りの不良だったのだ。
こいつはヤバイと私は早々に自分の席に戻った。
やがて調子に乗ったクラスメート達の悪口が
そいつの耳に届いたのであろう。
そいつは数人の仲間と一緒に我々の学年の階に上がってきて、
一人ずつトイレに呼び出してはリンチ=殴る蹴るの暴行をしたのだった。
もちろん傷が残らないよう巧妙に加減してである。
私も同じ教室に居たということで呼ばれたが、
相手の素性を知っていたので、何度呼ばれても頑として行かなかった。
この時呼ばれてトイレに行ったかどうかで
その後の学生生活は大きく分かれたと言える。
リンチを受けたクラスメートの数人は
その後そいつの子分にさせられてしまったのだった。
正に人生の分水嶺といった事件だったかもしれない。

数年前、同窓会であの分水嶺の時に
最初にいたずらを仕掛けたAと再会した。
私は冗談交じりに君の軽はずみないたずらで
その後数人の友達の人生が変わったと訴えたところ、
Aは相変わらずの軽口調子で、
そうだったっけ?とあっけらかんとしていた。
私はその後二次会には行かなかったのだが、
Aは二次会で金銭トラブルを起こしたそうで、
トラブルメーカーぶりは健在なようだった。

私は「あぶないものには近づかない」戒めとして、
また「好むと好まざるとに関わらず人には運不運がある」例えとして、
そして「人の持つ性格が時に幸不幸にも繋がる」教えとして、
この分水嶺の話を息子・錬(れん)や
我が子同様にかわいがっている甥っ子のたっくんに話して聞かせた。
彼らがややっこしい事件に巻き込まれないよう、
ドミノ的に他人の災いに押しつぶされないよう、
知恵のひとつとしてこの分水嶺の話を授けたのだ。

お金をかつあげ(=恐喝)されそうになった時も、
トイレに来いと呼ばれた時も、
頑と断ることができた性格に私は救われた。
今も変わらずお調子者のAは、
お金もないのに二次会に二つ返事でついていって、
久しぶりに会った友達と揉めてしまった。
(というか、いい年こいてわずかなお金で
トラブルを起こすとは情けない)

いずれにしても情けない体験談であるが、
こんな昔話で子供たちが大きな危険を避けられるのなら、
自らの恥も外聞も気にするところではない、
喜んで享受する親心である。

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