旅の空色
2015年 7月号
ジョニーは今どこにいるのか?
「つかの間のさみしさ うずめるた〜めに〜♪ 君の歌声を 聞いていた〜♪
せまいホールの壁に もたれて〜♪ 君の動きを追いかけていた〜♪
飛び散るあ〜せ(汗)と 煙の中に♪ あの頃の〜 俺がいた〜♪
オオオ ジョニ〜 君はいいま(今)〜♪ オオオジョ〜ニ〜 どこにいるのか?♪」
アリスの「ジョニーの子守歌」である(アリスとは1970年代後半に特に活躍した
フォークソンググループで、谷村新司と堀内孝雄の二人のボーカルと、矢沢透のドラム
からなる三人のグループ。特に有名な歌は「チャンピオン」や「冬の稲妻」かな)。
「G Em C E7(ジー イーマイナー シー イーセブン)」といった風に
ギターで旋律を弾きながら、私が初めて覚えたギターの弾き語り曲であった。
中学校のクラブ活動の体験入部で、2年生の女性の先輩から手取り足取り教えて
もらったのだった。「君は筋がいいし、歌もうまいね」なんておだてられた私は
友達と三人一緒にギター部への入部を心に固めつつあった。ところが入部直前、
文化系クラブとは正反対の、体育会系の卓球部に私は入部届けを出したのであった。
この時期、例えきついクラブでも、体を鍛える方が良いと考えた末の決断であった。
そしてその当時、この地区では強かった我が中学校の卓球部では、想像以上に
厳しい修練が待ち構えていた。
我が街・越谷市の北部、大袋駅(おおぶくろ)近くにある「卓球会館」は
そんな中学生時代に何度か足を運んだことがあった。ラウンド・ワンなどの巨大な
総合娯楽施設が幅を利かせる時代にあって、まだほそぼそとやっていたのかあと
感心したのが、35年振りに訪れた私の心の第一声だった。往時は簡素なプレハブ造りの
長方形の箱物の中に、卓球台が何台か並んでいるといった質素なイメージとして記憶に
残っていたが、今や三階建ての真新しい建物となっていて、なかなか立派なものである。
受付にいた老人に卓球台1台、2時間分のお代を払いながらそんな昔話を投げかけると、
老人にはぶっきらぼうに卓球スペースは昔と変わりませんよと返された。鉄筋プレハブの
骨組みはそのままに、内装をきれいにして、3階建ての自宅兼店舗を加えたのが
今の姿らしかった。これは失礼しましたと老人に軽く詫びた。
本格的に卓球台と向き合うなど、これもまた30数年振りである。旅行好きの私は
宿泊施設に卓球台があれば、確かに必ずと言っていいほど利用してはきたが、
私に言わせればあくまでもそれは遊びの域である。いわゆる”温泉卓球”といったうちで、
羽子板遊びのような心持ちであった。これに対し本格的な卓球は、粘着力を持つラバーを
貼ったラケットに、フットワークの十分に効くシューズを履き、足は前後左右に快活に動かし、
上半身を使って玉を低く打つ、正にスポーツの域となる。つまりは全身全霊を注ぎ込んだ
真剣勝負である。しかし今になってなぜ卓球と真摯に向き合うこととなったのかというと、
息子・れんのためであった。息子は私と同じ中学に進んだことに加えて、さらに同じ卓球部に
入部したのだった。特に卓球をやれと勧めたわけではないが、いろいろ体験入部した末に
息子は自分で卓球部を選んできたのだ。
そんな息子にエールを送る気持ちで、今回35年振りに卓球会館で
老体に鞭を打つという次第となったわけであるが、なにせ私も久しぶりの本格卓球で
各部錆び付いた体に一抹の不安を持ってはいたが、昔取った杵柄といったことわざは
本当であるらしく、しばらく打っていると昔の感覚が蘇るのをはっきりと認識できた。
ところで肝心の息子はというと、まあまだ始めて3ヶ月というところで、しばらくラリー
(打ち合い)をしていると、すぐに悪いところが見えてきた。ラケットを振るフォーム(型)
も出来てないし、フットワークも悪く、簡単に言えば手だけで卓球をやっている体なのである。
ただカット(ボールに回転をかける)は好きでよく練習しているらしく、変に回転のかかった
玉が返ってくるのが面白い息子であった。悪い点は一応息子に指摘したが、卓球のことは
学校の先生や先輩が親身になって教えてくれているだろうし、そこに余計な口出しは
避けたいので、息子には特にもう一度フォームをよく見て貰うように忠告するに止めた。
この日2時間、クーラーがかかっているとはいえ、大汗をかきかき息子と打ち合っている
中で、私はだんだんと自分で自分がおかしくてたまらなくなってきた。というのは
実は自分は卓球の落ちこぼれであったのを思い出したからであった。1年間はがんばった。
始めの3ヶ月間のきつい体力作りを乗り越え、厳しい先生や先輩の指導にも耐えた。
しかし結局、不器用さに加え、根性負けしたのだった。退部こそはしなかったものの、
クラブを引っ張って行く選手コースを諦め、やがて負け犬同士お互いの傷をなめ合う集団に
落ちていったのだった。ただ今となってみると、そんな私でさえ息子の善し悪しを
あれこれ見抜けるというのだから、当時の卓球クラブの水準がいかに高かったかを
物語っているとも言えるかもしれない。卓球での楽しい思いやつらい思い出、そして挫折と
奈落の後、30数年を経て今また息子と打ち合っているその姿がおかしくてたまらなかった。
そして規則正しいラリーのリズムの中で、いつの間にか口ずさんでいたのが、最初に紹介した
アリスの「ジョニーの子守歌」であった。最初で最後、ただ唯一覚えた弾き語りの曲。
ギター部にこそ入らなかったが、青春の1ページを飾る思い出の歌。そう言えば歌の歌詞も
”きみの歌声”に若い頃夢中で聞いたジョニーの歌声を重ねて青春を懐かしむ内容であった。
歌詞の2番にこんなフレーズがある。「子供がで〜きた 今でさえ あの頃を〜忘れない〜♪」
正に今、息子と玉を打ち合っているこの瞬間に響く歌詞に、はっと驚かされた。
そして歌は次のように終わる。「オオオ ジョーニー どこにいるのか?」と歌った後、
谷村新司が(いた〜)と叫ぶのだ。飛び散る汗の卓球台の向こう側、不器用ながらも
真剣に卓球に取り組む息子の姿に、あの頃の自分がいた。そして今度は諦めないだろう自分。
きっと試練を乗り越えられるだろう自分が。
「またパパと打ちに来るか?」と投げかけると、息子は笑顔でうんとうなずいた。
半端な技術の私とは言え、ラリーの相手はできるので、今のところ息子の練習相手には
十分役に立つらしい。加えて「1年間がんばればきっとパパよりも上手くなれるよ」というと、
少し驚いた顔をしつつも、そうかもと返ってきた。「その時は、今度はお前がパパに
いろいろ教える番だぞ」というと、息子は「わかった。いいよ」と親指を立てた。
師弟の立場が逆転する日は意外に近いだろう。
■ 執筆後記 ■
エッセイで紹介した越谷の「卓球会館」、
息子と何回か利用しているうちに、
なぜ今も脈々と営業できているのかが垣間見えた気がした。
それは真の卓球好きというか、
卓球に入れ込んでいる人々に支持されているからである。
お客は試合などはしない。
ただ決まり切ったリズムでラリーをする者ばかりである。
和気あいあいとした話し声も、笑い声もない。
ただただ卓上の世界に没頭し、その世界の中で、
己の技術を確かめ、少しでも向上を目指す姿ばかりである。
そこには”遊び”の雰囲気はまるでない。
そこは卓球と真摯に向き合う聖域となっている。
このようなお店のサークル化、
つまり特定の客ばかりの呼び込みは、
新規のお客には入りづらい雰囲気となり、
商売的にはどちらかというとマイナスと言われるのだが、
ここの場合は、その独特の雰囲気を暗黙の了解とし、
来る者は拒まず、去る者は追わずと言った具合で、
後はお客の選択次第といった
腹の据わった経営を基本としている風に私には感じられた。
おそらく卓球愛好家には、静かに卓球に没頭できる道場であり、
最後の楽園と言える貴重な場を提供しているのだろう。
ところで、昔腕を磨いた卓球を今また自分の子供とできるなんて、
なんて幸せなんだと思われるかもしれないが、
私自身は卓球にいい思い出はないので、内心複雑である。
”息子のために”、”少しは息子の役に立てるから”
付き合っているのであって、正直卓球自体に喜びはない。
スキーについても同じで、息子には
「お前がやりたいというから付き合っているだけで、
そうでないならスキーには行かないよ」と宣言している。
「なぜなら、万が一にもケガはできないからだ。
ケガをしたら、働けなくなってしまうからだ。
店が立ち行かなくなってしまうからだ。
そんなリスクは普通なら取らない。」
とはっきりと伝えている。
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