旅の空色


2010年10月号




象潟(きさかた)の夢

夢幻の遊覧

 その遊覧船は客が30人乗れるか乗れないかの小舟である。水深が浅いため細長い2艘の船に
橋をかけてつないでデッキを作ったいわゆる双胴船だ。夕暮れ時が一番人気があるそうで
小さな船の小さなデッキは人が溢れている。日が傾き日差しが黄色く染まり始めた頃、
船は係留を解いて桟橋を離れた。滑り出した湖面は風もなく鏡のようで、深いところは青く、
浅いところは灰色に映って船の通れる道を示している。やがて船は小さな小島の間を縫うように
進む。九十九島である。ここでは”くじゅうくしま”と呼ぶそうだが、地方によっては
”つくもじま”などと呼ぶところもある。大小たくさんの小島があるところを昔から
そう呼ぶことが多いようだ。その島のひとつで船はしばし止まり説明のアナウンスが流れる。
能因島(のういんしま)と呼ぶそうだ。平安時代の歌人・能因が東北の旅の途中にこの島に
庵を結び数年過ごしたとの解説である。庵を結ぶとは高校時代に苦手だった古文の授業を思いだし
思わずクスリとしてしまうが、つまりは簡素な小屋を建てて自然を愛でながら静かに過ごす
生活である。小倉百人一首にも名を連ねるまさに風流人らしい能因の往時の生活を
目の前の島に空想する。お日様は急くようにますます傾き、強い西日は島々の半分を黄緑色に、
影になる島の反対側を黒に近い深緑にくっきりと分ける。水面にあった青と灰色は
きらきらと光を反射した黄金色一色になり、島々の二色をさらに際だたせて三色の絵となった。
日本海沿岸には夕日の美しい名所が各地にあるが、この潟(がた)に現れる夕焼けの情景は
他では見られない格別の風情がある。かの松尾芭蕉が険しい峠を越えてわざわざ北上した訳に
納得する。やがて船は九十九島でもっとも大きい島に船体を着ける。島の桟橋より観光客たちは
ぞろぞろと寺の山門をくぐって奥に吸い込まれてゆく。この潟の守り神とも言うべき曹洞宗・
蚶満寺(かんまんじ)参りである。ガタゴトという音に山門から振り返ると羽越本線の
鈍行列車が見えた。潟と日本海を仕切る自然の堤の一本道を海からの夕日に照らされて
黒く浮かび上がった二両編成の電車が影絵のような美しさで延々と海を渡っている。
電車が夕日と重なると潟と海の光る黄昏色に堤が融けて、まるで銀河を走る電車の様となった。
いつもの時間のいつもと変わらぬ景色かもしれないが、万感の思いが込み上げてきた。
 ちょっとしたいたずら心で書いたが上に記した潟の遊覧は私の想像の産物である。
もし今でもその潟が残っていたらきっとこんな遊覧ができただろうと書いたものだ。
その空想の地は象潟(きさかた)。秋田県と山形県の県境、日本海沿いにある現・秋田県
にかほ市にある。潟とは海に隣接する湖を言う。元々は海の一部の入り江だったところが
波に運ばれた砂で仕切られて湖となったところである。その昔、象潟の湖面に浮かぶ
九十九島の名勝は宮城・松島と並び称されたもの”だった”。しかし今その潟はない。
1804年、東北の霊峰・鳥海山(ちょうかいさん)の火山活動が一因で大地震が発生。
象潟一帯の土地は隆起して一様に大きく盛り上がり潟は消え失せてしまったのだった。
現在、潟だったところには田んぼの海が広がり、そのなかにぽつりほつりと点在する松の茂った
小山が昔の九十九島の名残となっている。しかしそのような土地の歴史を聞かされて初めて
なるほどと気がつく程度の名残でもある。もし大地震がなく、松尾芭蕉の見たままの
豊かな自然に恵まれた象潟が残っていたら、きっと世界自然遺産も現実のものだったろう。

Final station 〜旅の終着駅〜

 『象潟』のことを知ったのは旅の情報誌からである。東北新幹線の各座席においてある
JR東日本発行の旅情報誌「トランヴェール」。鉄道会社の情報誌らしく自社管轄の鉄道を
利用する旅を中心に各地の歴史や名所、名産を紹介しているものだ。
最近私はお米の産地訪問で新幹線を使う機会が多く、その移動時間に愛読しているのだった。
その回は東北の旅行ではよく取り上げられる江戸の詩人・松尾芭蕉の旅の足跡の話であった。
芭蕉の詩と言えば「夏草や 兵どもが 夢の跡」と「のみしらみ 馬の尿する 枕もと」
くらいしか知識のない私であった(この「のみしらみ」の詩は当時の旅の事情=野宿もありうる
ことを示していて私的にとてもお気に入りである。しかしいくら旅好きな私でもこの様な
道中では出掛けはしないだろう。またこの情報誌には昼の松島の美しさに加えて夜の松島についての
紹介があった。特に満月の明かりに照らされた夜景は至上の極みだそうで、芭蕉も夜通しで
その美景に酔いしれたという)。情報誌の紹介では松尾芭蕉が「奥の細道」で最終目的地と
したのが『象潟』とあった。きさかた?私としては初めて聞く地名だった。地図で確認すると
秋田県南部の日本海沿岸に位置する。この辺りを南北に走る国道7号線はだいぶ以前に
嫁さんと通ったことがあるが、目に留まるような観光地の記憶はなかった。それもそのはずで
芭蕉の見た象潟は先に紹介した通り陸に上がった島々を残して消滅してしまったのである。
後日この辺りご出身の方数人に今現在の当地の様子を聞いてみたが、みな一様に口を揃えて
残された島々と蚶満寺があるだけで当時の名勝を偲ぶ風情はないとの話であった。
やはり今は何もないのかと一度は話を流しかけた。しかしやがて芭蕉が目指したその地を
見てみたい、芭蕉の目に映った当時の面影と対面できる”なにか”がきっとあると賭けてみたい
気持ちになってきた。前回のコラムで宮城の農家の人とあつみ温泉に宿泊した話を紹介したが、
その一泊二日の旅行の最終目的地は実は芭蕉と同じ『象潟』だったのだ
(この旅行では山形のいくつかの観光地を見て回りあつみの湯も楽しんだが、わざわざ秋田の
象潟まで足を伸ばすのはひとつの賭けであった。歴史的背景を多少なり予習している私は
得るものが少なくても満足であったが、旅の相方には申し訳ない結果になる可能性があった)。
 果たして私の求めた”なにか”は見つかったのか?それは‥あった!JR象潟駅より鳥海山に
向かって車で走ることおよそ5分、にかほ市役所前の体育館裏手に小さな小さな郷土資料館があり
その2階に展示されていた。それとは往時の象潟の様子を再現した大きな箱庭模型であった。
いにしえの本物の景色の美しさには遠く及ばないだろうが、立体的に往時の姿を捉えるには
十分なものだった。本コラムの最初に私が記した小舟による象潟の遊覧観光の様子は
この模型を元に想像したものだ。他にも古い絵図や屏風絵があり、ひととき時空を超えて
芭蕉の目を通した名勝・象潟の夢を楽しむことができた。
 郷土資料館を去る際に市の職員の人に昔の象潟を偲べる場所はないかと尋ねると丁寧に
道の駅の展望台を教えてくれた。JR象潟駅から国道7号線を1km程北上したところに
大きな道の駅があって、6階の展望台は無料で開放されている。青く透き通った空の下
遠く霊峰・鳥海山が鎮座し、九十九島が田んぼに点在する。そこに資料館の模型や絵図が
さらに重なって私の目には確かに潟が鮮明に蘇った。


■ 執筆後記 ■

これが郷土資料館にあった象潟の往時の潟を偲ぶ模型。
手前が日本海になり、真ん中よりやや左にある屋根が蚶満寺(かんまんじ)である。
1804年の大地震では2メートル近く土地が隆起し(=持ち上がり)、
潟は干上がって陸地化してしまった。

道の駅の6階展望台から現在の象潟を望む。
田んぼの中に点々とある木の生えた丘が昔の島の名残。
展望台の窓上にはそれぞれの島の名称が絵図で紹介されている。
田んぼを昔の湖面と想像すれば、なんとなく往時の面影が偲ばれるだろう。
この写真では視界が狭いが、実物は120度角に広がる美しい田園である。
右にそり上がる稜線は、名峰・鳥海山だ。

はっきり言って秋田県にかほ市にある象潟は
交通の便のよいところとは言えない。
秋田市からも南へ60kmほど下らねばならない。
もし山形県酒田市へ個人的に旅行に行く機会があったならば、
30kmほど北上して覗いてきてほしい。

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