旅の空色
2010年 4月号
30前後だろうか、若き師はきれいな円柱の粘土を糸で切り分けている。
一寸のひびもない完璧な粘土だ。それもそのはずで粘土の中に少しでも空気が入っていたら
その価値はないのだ。若き師は切り分けた粘土を今度は両手で力強く丸い玉に仕上げ始めた。
ほどよくきれいな玉となったところで我々家族3人の目に前にそれぞれ置いた。
さあ楽しい陶芸教室の始まりである。
あらためて説明の必要はないかもしれないが、陶芸(とうげい)とは粘土の形を整え、乾燥させ、
高温の窯(かま)で焼いて器(うつわ)や皿、壺などを作る技法である。基本的には古代人より
受け継がれてきた簡素な粘土細工であるが、最終的な作品の出来映えを追求するとなると
粘土の質から始まり成形、乾燥、そして焼きとすべての過程において神経質な作業となる。
などと陶芸の云々をもっともらしく語ったが実は私は今回が初めてのずぶの初心者であった。
今回私たち家族3人は初心者向けのカップ制作と、幾度か陶芸経験のある嫁さんのかねてからの
希望であった大皿の大作、そして息子と私でその取り皿の制作に挑戦した。
最初は比較的簡単なカップ作りで小手試し。最近ワンウェイのドリップコーヒーを楽しんでいて、
ドリップを付ける都合で背のあるコーヒーカップがほしかったのだ。
先生がきれいに丸めてくれた粘土にまずは恐る恐る親指を深く刺してカップの深さを決める。
その親指を軸に他の指で外側から粘土を挟み、もう片方の手でロクロを少しずつ回しながら
粘土を広げ形を整えてゆく。幼少の頃より油粘土細工に心得があった私は、粘土いじりには
少々自信があった。しかし最初に紹介したように少しでも粘土に空気が入ると焼いた時に
空気の膨張により破裂やひび割れを起こすため、後からの付け足しや補修が効かないとの話で
この成形作業はかなり神経のいるものであった。大胆にそして細心の注意を払っての作業に
四苦八苦の私であったが、それ以上に心配したのは息子の錬(れん)くん7才である。
果たして我が息子は陶芸制作を理解し、遅れず飽きずについて来れるだろうかと終始心配で、
作業の間合いにちらちらと彼を観察していた。相変わらず人(先生)の話はよく聞かずに、
勝手に進めている風に見て取れ、内心冷や冷やしていたが、その割には出来上がったものは
一応形になっていて、最後は思わず感心してしまった。
冒険の大作・大皿作りであるが、8寸(約30cm)を超えるものとなるとなかなか力量の要る
ものとなる。先生の指導の元、大きな粘土玉を叩き伸ばすのに嫁さんは大格闘していた。
その脇で息子とふたりで取り皿の小皿を制作する。大皿、小皿ともに息子の大好物のピザを
のせるためのものであった。ピザは毎度冷凍食品をレンジでチンするだけのものであるが、
家族で作った大皿・小皿にのせて食べるそれはきっとひと味もふた味もうまいに違いない。
立ちん坊で制作することおよそ1時間半、家族3人それぞれの大きめのマグカップと
力作の大皿1枚、そして取り皿の小皿3枚が形となった。まあ素人作りなので多少不格好な部分も
あるが、そこがまた味というものでもある。これから2ヶ月ほどかけて乾燥や窯焼きをして
もらうが、問題のありそうな部分はプロの先生がうまく直してくれるに違いない。
陶芸は高価な粘土の量で料金が決まる部分が大きいので今回は結構な出費となったが、
汗と思い出の詰まった家族の宝としてきっとそれ以上の価値となるだろう。
今回陶芸を学んだのは福島県会津若松市、白虎隊の悲劇の地・飯盛山のほど近くの
慶山焼きという窯元であった(嫁さんと息子を仙台の実家に送る途中で寄り道したのだ)。
名の由来は窯元の目の前にある慶山という山で、山より今でも原料となる良質の粘土が産出し、
それが売りの焼きモノのようだ。以前在籍した会社の上司がかなりの焼きモノ好きで、
同じ福島県内の浜通り(太平洋岸)浪江にある大堀相馬焼きの窯元に連れて行ってもらった
ことがあるが、粘土は地元では近年見つからず山口県あたりから取り寄せている旨の話を
聞いたことがあるので、この慶山は恵まれた地と言えるのかもしれない。
ちなみに大堀相馬焼きの特徴は焼いた時に表面に出る細かいひび模様(青ひびという)と聞いた。
今回体験した形成は初心者向きの「手びねり」という手法で、ロクロを自らの手で回しながら
形作ってゆけるので、マイペースで製作を楽しむことができる。他に電動ロクロによる形成や、
ひも状にした粘土を重ねて大きな壺などの大作を形成する指導もしているそうだ。
修学旅行の生徒など多いときには数十人規模で教えるそうで、好感の持てる丁寧な指導であった。
器も味のうち
正直私は陶器にそれほど興味はない。その制作たる陶芸も然りである。
しかしながらあえて今回陶芸教室にチャレンジしたのは息子に親の学ぶ姿を見せたかったから
である。今回の師は私と比べれば10才以上若かったが、相手が誰であろうと人様より教えを
請うには如何なる姿勢で望むべきか、その手本となればとのこころであった。
というのは以前授業参観で見た息子の勉学の姿勢に一抹の不安を抱いていたからであった。
今回の家族3人で挑んだ学びの機会が息子に何らかの実をもたらしたのかは今はわからない。
まあ大きな期待はしていないが、家族で作った力作が食卓を飾った時に、あの時の光景を
少しでも思い返してくれれば良しと言えるかもしれない。
嫁さんが陶器に興味があると知ったのはいつの頃だったか。陶器といっても古く価値のある
骨董(こっとう)の類ではなく、普通に身近に食卓を飾る実用的なものである。
確か飛騨高山を旅行した時、高山市内にある陶器店を巡ったのが始まりかと記憶している。
陶器は普通の食器よりも少々値が張るので、何枚か買い求めた限りであったが、
そのうちのひとつ、横長の角皿はサンマの塩焼きを飾るのにぴったりで、同じ食材ながら
今までとはひと味違う趣を感じたものだった。その頃より私も料理の器に対する見方が
少し変わってきたように思える。だからといって陶器を趣味とする熱心さは私にはないが、
料理を見る視野が少し広がったようであった。
最近ある有名な料理の専門家が言ったおいしさについての見解にとても感銘を受けた。
彼曰く「料理そのものの味はおいしさの半分の価値しかない」そうだ。
「残り半分のおいしさはその場の雰囲気や器、盛りつけで決まる」というのだ。
そう改めて言われれば料理の名店といわれるお店が店構えや茶室風の水屋、箱庭や庭園、
店内の装飾にこだわるのは店主の趣味でなく、すべて料理をよりおいしく振る舞うための
仕掛けであるのが理解できる。そしてこだわれば切りがないが、器もそれ相応のものとなるだろう。
ただそれは対価をもらう料理のプロの世界であって、毎日の食卓にそんな演出を求める必要は
もちろんないと思うが、皿一枚、花一輪でいつもの味や食卓の雰囲気がよりよく変わるのなら
それもそれぞれの家庭の美学となろう。
■ 執筆後記 ■
陶器造りはあまり上手とは言えないが、
油粘土で作る子供の粘土遊びは
我が得意とするところである。
それも一般的なそれを抜きん出る技と自負している。
さすがにあまりにも子供じみた遊びなので
最近はこねていないが、
子供の頃は、小学生高学年の頃までは
暇さえあれば造形に明け暮れていたといっていい。
ただ、いわゆる芸術的な造形美を追求するような
高尚なものではなく、
子供らしい遊びの延長である。
しかしそのこだわりが我が技の自負するところである。
太平洋戦争で活躍した
航空母艦「赤城」に重巡洋艦「鳥海」。
宇宙戦艦ヤマトに登場した
宇宙戦艦「キリシマ」に宇宙駆逐艦「ユキカゼ」。
ドイツの戦車「ティーガー」にアメリカの「シャーマン」。
姫路城の城郭などなど。
それらを忠実に再現するのが
我が粘土細工の得意とするところである。
しかも構造物の内部まで造り極める。
戦艦や戦車類は10cm大の作品を目指しているので、
内部といっても大ざっぱな仕上がりとなってしまうが、
それでもエンジンルームや弾薬庫、
居住区、格納スペースと細やかな細工の許す限り
完成度を高める。
その理由は‥、
戦闘の結果に破損した時など、
内部が剥き出しになる様を再現したいためである。
つまり可能な限り究極のリアリティーを求めているわけ。
そんなわけで指先の器用さにも自信がある。
また指先で細やかな造形作業をすることは、
脳を活性化し、
とりわけ想像力を育てるとも信じていて、
今私が持つある程度の想像力は
この体験が育んだものと思っている。
ところで息子に本を読ませた時に
あまりにも想像力が足りないので
この油粘土を使って一緒に遊んだことがある。
私の腕前は全く衰えていなかったが、
息子の作品たるや、やはり想像力のかけらもない、
粘土塊に粗末な手足がついたといった状態で、
重ね重ねがっかりしてしまった。
何度か粘土教室を開いたが、
私の時のように油粘土が想像力発達に
寄与する可能性は見出せなかった。
私の手の内にある限られたツールを駆使し、
限られた時間と労力を持って
息子のすこやかな育成の道を探っている毎日だ。
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