旅の空色
2010年 6月号
憧れのふるさと
私には田舎らしい田舎がなかった。東京都千代田区淡路町生まれの江戸っ子を自称する母の
両親は太平洋戦争の戦災で流れ流れて最終的に越谷市大袋にいたし、父方は代々埼玉県三郷市の
出である。つまりはいずれも30分もあれば実家に帰れる距離であるのだ。とても「帰省する」
との表現は当てはまらない布陣である。だから幼少の頃お盆休みや年末年始に親の田舎に帰省する
という友達の話を聞くとうらやましくて仕方がなかった。電車であるいは車で、野を越え
山を越えてたくさんのおみやげを携えてたどり着くその地は、やさしいおじいちゃんや
おばあちゃんが笑顔で待つ心温まるふるさとと空想していたものだった。いつか自分も
そんな場所がほしいと願っていた。宮城県仙台市出身の嫁さんと結婚した時、いよいよ私にも
ふるさとができると思いが高ぶった。しかし嫁さんの仙台の実家はまるでここ蒲生と同じような
住宅地で他所に来た気がしない風景であった。まーそれはそれで馴染み易い土地柄と言えるが、
私の空想していた野や山や田んぼや小川が流れる景色とはかけ離れた場所だった。
嫁さんと息子は年に2回ほど仙台の実家に帰省するが、息子が全く躊躇なくその日より
仙台の生活に馴染むのはそんな蒲生と似た環境のおかげかもしれないが‥。
農家よりお米を直接買う商売を始めてやっと理想に近い野山に囲まれたふるさとらしき場所を
見つけた。しかし所詮私はお米を買いに来るお客さんで、農村特有の排他的な目線で見れば
間違いなくよそ者であった。またこれまた農村特有のゆっくりした時間の流れに身を委ねきれない
自分自身にも違和感を感じていた。そんな疑似ふるさとの地にお米の仕入れに通うこと十数年、
当店として特に力を入れているお米産地のひとつ、宮城県北部の地については
やがて随分と詳しくなった。好きな歴史を生かした地域の小さな郷土史を訪ねたり、
今や廃線となってしまった田園電鉄に乗ってみたり、地元のあちこちの温泉に浸かったり、
村の運動会を見に行ったり、時には農家の方の不幸に立ち会ったりしているうちに
自ずとその土地の臭いが移ってきたのだろう、農家の方々の毎年出迎えてくれる笑顔が
どんどんくずれてきて、やさしさのあふれるものになってきたのだ。近頃は農家の人の方から
歩み寄って来ていろいろなイベントや遊びに誘ってくれるようになった。いつしか彼の地は
私自身にとって本物のふるさととなっていた。
そして本年夏、私の第二のふるさととなった彼の地とさらなる深化を深めるための秘策を
実行しようと企んでいる。私はその試みを「古里補完計画」と名付けた。
古里補完計画
人にふるさとは必要なのだろうか?ふるさととはどんなところを言うのだろうか?
ただ生まれたところだけで定義するならば、私にとってふるさとはここ蒲生の地となる。
確かにここ蒲生にも愛着がある。しかし何かが足りないから私のこころはそれを”補完”しようと
しているのだ。では私はふるさとに何を求めているのか?いつもの旅行先となにが違うのか?
今回この執筆にあたり改めて考えてみて私は以下2つの帰結に至った。
ひとつは豊かな自然である。野があり山があり小川が流れ田畑が広がる人の数よりも圧倒的に
多い自然である。以前は都市化に伴う人間と自然が乖離する姿に危惧を唱えるコラムを
多く見かけたが、人類の半分が都市に住み、宇宙にも住の域を求める今となっては
そんな心配は近頃鳴りを潜めてしまったようだ。しかしトレッキングや日本百名山登山の人気にも
見られるように、自然回帰の密かな欲求は都市生活の延長線上にも確かに存在する。
遠い昔、人間を産み落とした自然という名の母への思いの糸を手繰っているようにも見える。
もうひとつはふるさとにある人の営みである。大自然だけではダメなのだ。
あくまでも人間と自然の対比がなければ、人間の存在理由が問われてしまうからだ。
そして実際にその地に住む人々と交わり同じ時間と寝食を共有することにより、
人間のみで作った都市のルールとは違う空間を体感して、生きる環境の多様性を見つめ直す。
普通の旅行との決定的な違いはここにあると言えるだろう。確かに普通の旅行でも自然を愛で、
旅先の風土を体験できるが、それはあくまでもお客さんとしてであり、都市生活者のレジャーの
延長線上なのだ。逆にそんな旅でもテレビ局の出来過ぎた旅番組のように血の通った地元の生きた
生活に触れると、とたんにふるさとというキーワードが浮かび上がってくる所以でもある。
私の求めるふるさととは大自然と人々の生活が融合した異世界と言えるだろう。
ところで本年夏実行予定の「古里補完計画」であるが、これは私のためだけの計画ではない。
毎度お馴染みの妹の子供・たっくん(10才)と我が子・れんくん(7才)のふたりが主役なのだ。
だいぶ前から子供たちを私のこころのふるさとに連れて行きたいと思っていたのだが、
我が子・れんくんにもやっと自立心が芽生え始め、この計画の試練にも耐えうると期待でき、
本年計画実施の運びとなったのだった。見渡す限りの大自然の中でそこかしこにいる虫を追い、
魚を釣り上げ、鶏や豚、牛といった生きた家畜に触れ、人々の食を支える農家の人々と交じわう。
いつもと違う周りの景色や時間の流れ、そして人々の生活を通じて、自分の住む世界とは違う
別の世界のあることを少しでも実感してくれたら。さらに願わくば私と同じようにふるさととして
彼の地を大切に思うようになってくれたら。ふるさと願望の強いひとりよがりな計画かも
しれないが、今回の「古里補完計画」は子供たちのこころに自然に満ちたふるさとを作るという
野心的な企みなのである。
それともうひとつこの計画には彼らを少し大人にさせるかもしれない仕掛けがある。
それはいままでの旅行と違い母親が同伴しないことだ。いまひとつ気の回らない男手の私との
男三人旅なのだ。必然的に身の回りのことはすべて自分でしなければならないだろう。
時には子供同士で助け合う必要も出るかもしれない。お互いわがままな一人っ子同士で、
かつ年の差はあれお互いをライバル視するふたりは果たしてうまくやっていけるのか。
彼らの人生に豊かな実りをもたらす旅となることを祈願している。
(ちなみに母親たちはだいぶ心配している。私も一抹の不安あり)
■ 執筆後記 ■
意気込んで計画を練ったが、
結局この計画はある事情により
実現することはなかった。
翌年より我が息子は連れて歩くようになるのだが、
甥っ子のたっくんとはこの後機会は薄れた。
まあだんだんと大きくなるにつれて
そのようになることは自然の流れであり、
しかし同時に悲しい現実でもある。
私は昔、学生の頃は地元に根を張るような
狭い世界で生きていた。
まあ大抵の人もそうかもしれないが、
ただ私は特に地元に愛着があるわけではないので、
今で言う「ソフトヤンキー」の部類にはならない。
ただただ出無精だったのである。
しかし4年間学校に通うにあたり
最初の2年間の校舎が横浜にあったので
学校の近くにアパートを借りて住むことになり、
この一人暮らしが私を大きく変えた。
この体験により人が生活するに
最低限何が必要かを体感したのだ。
さらに就職と同時に、ダンボール箱1つの荷物で
仙台に紙1枚で飛ばされたことも
ひとりで暮らしてゆく知恵を授けてくれた。
だから私はひとりで暮らせる自信はある。
料理も掃除も洗濯も、きめ細やかにはできないけれど、
一通りこなすことができる。
またどんな土地でも暮らせる気持ちもある。
但し、温かいだの、寒いだの、トイレがきれいだの、
風呂の大きさや台所の使い勝手だの、
立地だのといった人並みの希望はあるが。
そんな私は子供に対して
親元を離れて暮らす経験を
なるべく早い時期にしてほしい願っている。
アパートでもいい、寮でもいい、
ひとりの寂しさや、日々の生活という現実、
そして家の外の広い世界を
自ら体感してほしいと望んでいる。
その後、家に戻っても、
自ら家族を持つなどしても、
身の回りの距離感がはっきりとわかる
ようになるだろう。
それは生きて行く上での
貴重な感性となるだろう。
一つ戻る