旅の空色


2010年 3月号




『島原を訪ねて』

順風な航海の先

 デッキに出るときゃっきゃと賑やかな声が上がっていた。揃いのジャンパーを着た男女の一団が
皆一様に手すりから身を乗り出し片手を空高く上げて騒いでいる。この日東京ではみぞれ混じりの
悪天候と聞いたが、ここ九州有明海もどんよりとした雲の厚い膜が広がり、空には別段見るべき
ものもないはずである。するとその一団の上を白い線が一筋、また一筋と流れるのが見えた。
やがて白線は無数の流れを作り、男女たちの手の先に群がり始めた。近くに進んで確かめると
それはカモメの群であった。カモメたちは大きく広げた翼を微調整して船速にぴたりと
スピードを合わせ、まるでそのまま宙に浮いているように見えた。やがてちらちらと横目で距離を
確かめながら人の手に近づくと、その指先に挟まれたかっぱえびせんをくちばしで器用に
さらって次々と空高く離れてゆく。後から気がついたが、船の売店で山のように積まれていた
かっぱえびせんはこの定期連絡船の名物であるカモメの餌やりのものだったのだ。
男女の一団はそのジャンパーに書かれた文字から察すると地元九州の大学の運動部のようで、
カモメが指先の餌をとる度に奇声を上げていた。中には自らの口にかっぱえびせんを加えて
差し出す者もいて、寒い風の吹く甲板にあって暖かい笑いの輪を作っていた。
 やがて船の前方に二重に山裾が重なった大きな山がはっきりと見えた。天気さえよければ
美しい稜線が山の全容を飾るのだろうが、今日は雲の幕に山頂を突っ込んでいて頭は覗えない。
手前に小降りの山があり、その山の裾野に海に向かって小さな町が開けていた。このフェリーの
到着地である島原外港の町だ。デッキのお客たちの視線も一様に船の先に注がれていて、
カモメの群れも遠く去り、楽しい船旅の終わりを告げていた。私を始めある年齢以上のお客には
おそらく目に見える風景とは全く別の景色を心の中で重ねていると思われた。
この静かな小さな港町が数年に渡り受けた受難の日々を想って‥。

いまでも鮮明に心に残るあの映像

 長崎県を訪れるのは初めてだったが、この島原の地に立ち普賢岳を仰ぎ見ると眼と胸の
熱くなるのを強く感じた。普賢岳の平成の大噴火といわれる一連の災害は今となっては
20年も前の話となるが、1991年6月3日夕方に流れたニュースは私の人生における
大事件のひとつとして今でも鮮明に思い出すことができる。普賢岳の噴火が始まってより1年、
時折噴煙の上がる小規模な火砕流の映像はよく目にしていたが、あの日発生した火砕流の固まりは
予想を遙かに超えて膨らみ続け、瞬く間に多くの人命を飲み込んだ。報道関係者を中心に、
地元消防団、タクシー運転手、警察官、学者、選挙職員、そして地元住民と43名もの
死者行方不明者を出したのだった。特に私の心には亡くなったフランスの火山学者である
クラフト夫妻の面影が強く残っている。妻、カティア・クラフトと夫のモーリス・クラフトは
大学で出会って以来、世界中で活発な活動をしている活火山の火口付近まで足を運び、
貴重な映像を残し、時には地元に警告を発する火山のエキスパートであった。ふたり連れ添って
溶岩が流れ火の粉の降る中を火口へ登ってゆく様は、情熱と愛情の感動を覚えたものだ。
そんなこころざし高いふたりが日本の普賢岳で命を落としてしまったことは誠に残念であった。
災害の可能性は全くなかったとは言えないだろうが、その時はタクシーの運転手も付き合って
いるように山は比較的穏やかな景色だったに違いない。あの時までは…。

 火砕流(かさいりゅう)とは火山の噴火により発生した粉塵やガスが雲のような
固まりとなって火山を下り来る現象である。1991年6月3日の普賢岳大火砕流の場合、
その迫りくる速度は毎秒300メートル、温度は800度にも上ったと想定されている。
つまりは被災範囲にいた場合はほぼ逃げる術はない災害であった。災害から14年の年月を経た
2005年6月に殉職した日本テレビカメラマンの撮った最後の映像が発見されたが、
普賢岳が火砕流の噴煙をごうごうと上げ始めてよりカメラの映像が途絶えるまで6分18秒の
間合いしかなかった。小規模な火砕流は度々映像で捉えられていたので、実際に身の危険を
感じて逃げる時間はわずかであったことが映像記録に残されていた。
 噴火の災害は火砕流ばかりではなかった。降り積もった火山灰が雪のように厚く層を作った
ところにわずかでも雨が降ると土石流(どせきりゅう)というドロ状の濁流となって麓の人家を
襲った。水無川を中心とする千本木地区が土石流の道となり、大きな火山岩も含んだ濁流が
残した傷跡は今でも素人目にもくっきりとその範囲を確認することができる。しかし人工密度の
高い町の中心地は土石流の被害は免れた。普賢岳との間に位置する小高い眉山(まゆやま)が
その侵入の盾となったのだ。長い間普賢岳という火山と付き合ってきた人知が生かされた町作りの
たまものであると私は感じ入った。しかしこの眉山も長い普賢岳の歴史にあって
ひと逸話もっている事実を後から知ることとなる。

島原大変肥後迷惑 しまばらたいへんひごめいわく

 普賢岳は平成の大噴火より198年前の1792年、江戸後期にも噴火をしている。
この時は噴煙と地震、そしてやはり水無川沿いの千本木地区に中規模の土石流が発生している。
そしてそろそろ噴火も収まるかと思われた5月下旬に想像だにできない最大の悲劇が待っていた。
この時の加害者こそが町を救う位置にある眉山であったのだ。大地震の後、眉山の海側が
広域に渡り町を呑み込む形で大崩落したのだ。なるほど、そう言われて今の眉山を望むと
海側がスプーンで削った後とようにそぎ落とされてた形をしている。その大崩落の土石は
海に転がり込んで島原沖に大小幾つもの島まで作ってしまう規模であった(九十九島群)。
ここまでもものすごい大災害であるが、大崩落のエネルギーはまだまだ収まらなかった。
海に転がり込んだ土砂は海面に高潮という波紋を発生させ、それが対岸の肥後(熊本)の
天草地方で津波となって人家を襲った。さらに天草の津波は返し波となって島原に反転到達し
津波となって二重に被害を拡大したのであった。眉山の大崩落で五千人、天草の津波で五千人、
復路の津波でまた島原で五千人、計1万五千人規模の火山災害としては有史上最大の被害と
なった。肥後では島原のとばっちりを受けたこの災害を「島原大変肥後迷惑」と呼んだそうだ。
 以上、島原の火山災害について紹介したが、これらはすべて島原外港より南に車で走ること
10分足らずにある「普賢岳災害記念館」で得た知識である。とても立派な建物で初めは
また行政のハコモノかと勘ぐったり、入館料1000円は高いと思ったりしたが、
実際見学するととても内容の充実した大変勉強になるすばらしい施設であった。
最後には1000円は安い!と思ったくらいである。別称「がまだすドーム」と言うそうだが、
「がまだす」とは島原の方言で「がんばる」の意味だそうで、普賢岳との共生の道を歩む
島原の人々の決意の象徴でもある。今回は急ぎ足の旅行のためゆっくりとする時間がなかったが、
ぜひもう一度訪れてよくよく見学したい島原であった。


■ 執筆後記 ■

 雲仙普賢岳の火砕流災害より23年を経て、
それを上回る火山災害が2014年9月に起こった。
長野・岐阜県境にある木曽御嶽山(きそおんたけさん)の噴火である。
戦後最悪の被害となった(死者57名。行方不明者6名)。

その前年、2013年の10月、エッセイで紹介した通り
我が家族は所々小さな白い噴煙のあがる
栃木県の那須岳に登っていたが、御嶽山噴火の報を聞いて
背筋の冷たくなる思いをしたものだった。
那須岳の頂上にあるカルデラ火山特有のくぼみを見下ろしながら、
息子には「この山はいつ爆発したっておかしくないんだぞ」などと
半分冗談交じりにちょいとした地質学の講義をしていたのだ。
まさか突然噴火などするはずはないとその時は
自信を持って登っていたが、そんな自信は
何の根拠もないことが証明された。

NHKの番組で「15分で100名山」という番組があるが、
たまたま「木曽御嶽山」の回を取り置きしていたので
見てみると、なるほど、途中途中に
万年雪や数々の池、お花畑があるなど
見所満載の気軽な登山コースであり、
また山頂からは遠くにいくつもの名山を見渡せるなど、
初心者からベテランまで満足のゆく行程に
その人気振りを感じた。
ただ最後に山のガイドが
美しい自然の広がる登山路の斜面とは反対側にある
荒々しく生命の存在を許さない火山の火口部の地獄谷も見せて、
この山にある優しさと厳しさの両面を知るよう
紹介しているのも印象的であった。

大自然の起こす予期せぬ天災においては
人は自然のなせる技に致し方ないと諦めがつき、
また人間による人災においては
人々の怒りの矛先はその原因に責任者に
激しく向かうものだと今までの経験で見てきたが、
島原のがまだすドームの映像にて
ひとりの老婆が家族を奪ったお山に向かって
「ゆるせねえ」と拳を握り、にらみつける姿に
人の心の傷の深さに改めて気付かされたことがあった。

不慮の災害とは言え、亡くなった方々のご冥福を祈り、
また残されたご家族のご心中をお察し申し上げます。


2013年10月14日(月)那須岳の火口部をバックに撮影。

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