旅の空色


2014年10月号




『助けに入ってはいけない』

 「友達とザリガニ取りに行ってきま〜す♪」
声だけ残して出掛けようとする息子を父は「ちょっと待て」とこれも声で引き留めた。
魚取り網を肩に担いだ息子はいかにも急いでいるのにといった表情を浮かべながらも
しぶしぶと戻って来る。「なあに?」と大儀そうに聞く息子に父は静かに問い掛ける。
「どこにザリガニ取りに行くんだ?」との問いに、「赤橋(あかばし)の用水だよ。
あそこにうようよいるんだ」と答えた。6メートルほどの幅の農業用水に欄干が赤く塗られた
橋が架かっているので赤橋と言われる場所がある。父は息子の急いた呼吸を冷ますために
沈黙をひとつ置いて、そして静かに語り掛けた。
「もし友達が誰か溺れたら‥、決して水に入って助けてはいけないよ。誰か大人を探しに
行って助けを求めるんだ。絶対に水に入ってはいけない。ひどいようだけどそうするんだよ」
息子はわかったとうなずいて、やっと開放されたとの安堵の顔でせかせかと出て行った。

 父が水で怖い思いをしたのは中学3年生の夏であった。東京の竹芝桟橋から定期船に乗る
こと12時間、夜出港し早朝着いたそこは、白い砂浜がまぶしい新島であった。
海の大好きな父は毎夏必ず関東近辺の海水浴場を楽しんだが、こんな穢れない美しい浜を
見たのは初めてであった。旅装を解くのも待ちきれず、早速に桟橋近くのおだやかな浜に
泳ぐと、手の届きそうなところに色とりどりの魚が現れた。中には50cm大の大物もいて、
追いかけて少し沖に泳ぐと、今まで見えていた海底が急にずどんと底なしの深みに繋がる
ような海底の棚に出くわして、冷やっと驚いたものだった。ここが大海にぽつんと突き出た
島であることを知らしめられた。その後は注意して桟橋近くで遊ぶようになった。
 翌日、サーファーで賑わう波の高い浜で遊んだ。丸い浮き輪におしりを突っ込んで、
両手をオールのようにこいで、ちょっとした船遊びの体だった。高い波間の中にあって、
降り注ぐ夏の太陽の光に体を温めていた。と‥、気が付くとだいぶ沖に流されていた。
いや、だいぶというより”かなり”だった。浜に体を乾かす人々がごま粒のように見えた。
父はびっくりし焦った。やがて少しずつ浜に平行して横へ横へ流されていることにも
気が付いた。かなりまずい状況だった。今ある船遊びの、手をオールのようにしてこぐ
体勢ではとてもこの難局を乗り切れないことはすぐに悟った。しかしこの体勢を変えるには
一度海に身を投げて体勢を作り直す必要があった。下はもう昨日見たような、あの底なしの
海底であることは知れていた。たまたま浮き輪にひもが付いていたので、父はそれを
一周手に巻いてぐっと固く持ち、覚悟を決めた。もう躊躇している暇はなかった。
浮き輪から体を投げると、体はするすると一直線に沈んだ。浮力の理屈などない世界のよう
だった。唯一浮き輪に付いていたひもが命綱となり、それを頼りに海面上に復活できた。
浮き輪の中に体を通し、腰の位置に落ち着けて、父唯一のカエル泳ぎで浜に向かった。
遅遅として進まぬ未熟な泳ぎに、何度も助けを求めようかと迷った父であったが、
若き自尊心からくる恥ずかしさがそれを許さなかった。
やがて周りに海を楽しむ人の姿が見え始め、何とか自力で浜に帰還できた。
この体験以来、父は浜では足の着く浅瀬でしか遊ばなくなった。

 その翌日、旅行最後の日。そんな浅瀬ですら危険が潜んでいることを
さらに知らしめられることとなった。昨日の失敗に学んで、波の崩れる辺りで遊んでいた
父であったが、突然の大波に食われて、水中に横倒しにさせられた。するとどうだろう。
大波の下は沖に向かってすごい勢いで流れる引き潮で、父の体は水中でまるで棒っ切れの
ようにもてあそばれて、為すがままに沖に沖にと引きずられ、引っ張られたのだった。
ただこの時も父の体をまだ浜に近いところに何とか残したのは、しっかりと握りしめた
浮き輪のひもであった。浮き輪がアンカー(錨・いかり)の役目を果たして、海面の波間で
波の力に頼って、辛うじて引き潮の力に抵抗していたのだ。それでもやがて流れがゆるんで
浮き輪を頼りに海面に上がると、すでに足の届かない深さのところまで流されていて、
父は改めて水の怖さに背筋の冷たくなる思いをしたのだった。
 そんな経験以来、父は海でも川でもプールでも、水遊びにおいてはかなり用心深くなった。
今大人となって当時のことを再考するに、時期がお盆明けであったとこが危険な目に遭った
最大の理由と思われる。つまりはすでに土用波の時期に掛かっていたということだ。
報道においては毎年必ずと言っていい程、この土用波の犠牲になった若人の話が出る。
波打ち際なら安全と、時季外れの浜で波と戯れる若人たちに、土用波は時折生け贄を
求めるのだ。またそれと同時に父は自らの親父の不甲斐なさにも憤りを感じるのだった。
もともと泳げない母は仕方ないとしても、一家の長ならば子供達の安全に最大限注意を
払うべきであると。その点においては、父の親父はマイペースな無頓着な人であったのだ。
その親父の足りなさを反面教師として、父は子供達の水遊びに最大限の注意を払ってきた。
しかしそんな父においても油断はあるものだ。一度子供達の見守りで冷やっとした思いが
あった。それは浜が天然の入り江となっていて、波の穏やかな伊豆の戸田(へた)の
海水浴場でのことであった。息子と息子より3つ年上の従兄弟と父の3人で遊んでいると、
突然の風にビーチボールが飛ばされてしまった。慌てた父は二人の子供を浮き輪に残して
本能的にボールを追いかけてしまった。と、追いかけてすぐに、残された子供達には
足の届かない深さの海にいることを思い出した。しかし波のない、流れのない浜であるし、
泳ぎの上手な従兄弟も一緒だから大丈夫と、さらにボールを追いかけたのだった。
やっとボールを捕まえて、子供達のところへ戻ってきた時に、浮き輪にしっかりとしがみつき、
不安げな表情の二人を見て、父は自らの馬鹿げた選択の愚かさにハタと気が付いたのだった。
泳げる従兄弟はともかく、何かの拍子に息子が溺れてたら、パニックになってしまったら
と思うとぞっとしてきたのだ。父は「さびしい思いをさせて悪かった」とふたりに詫びた。

 「ただいま〜」と元気な声で息子が帰って来た。父が収穫を聞くと、いっぱい獲れたよと
自慢げに答えた。そしてザリガニは全部友達にあげちゃったと加えた。
持って帰ってもどうせすぐに死んじゃうんだからと毎度言われているのが効いたらしい。
「どうしてもし友達が溺れたら助けに水に入っちゃいけないかわかるかな?」
と改めて聞くとわからないと言う。「友達と一緒に溺れて一人息子のお前まで失ったら
パパもママもその悲しみに絶えられないからだ」と率直に完結に伝えた。
父はこんな風に気持ちを素直に伝える我が家はアメリカナイズしていると心で笑った。
(アメリカナイズは和製英語で「アメリカ風な」という意味)


■ 執筆後記 ■

 賢明な読者諸君においては
すぐに気が付かれたと思うが、
この話に出てくる「父」は筆者自身であり、
実体験に基づく話である。

この水遊びにおける息子への忠告をした頃、
偶然にも時同じくして、息子と一緒に読書をしている
「小学生までに読んでおきたい文学」
(あすなろ書房 出版。松田哲夫 編)
の第三巻「こわい話」において
水の事故についての三つの話が登場した。
有島武郎の「溺れかけた兄妹」、
コストラーニ・デジュー(ハンガリー)の「水浴」、
小松左京の「沼」が三つ続いて載っていた。

「溺れかけた兄妹」は土用波にさらわれて、
危うく死にそうになった子供の話。
「水浴」は父の不注意でひとり息子を失う話。
「沼」は子供の頃のトラウマによって
結果甥っ子を失う話である。
いずれも「不注意」や「油断」、「過信」によって
水の事故に遭う話だ。

とりわけ「溺れかけた兄妹」では
兄は自分の泳ぎに精一杯で、
幼い妹を失う寸前であった。
妹は後々もこの時の兄の対応を
恨めしく語り続けたとのオチであったが、
私は息子にこの兄の一見冷たい対応は
正しい判断であったと話した。
もし妹に手を伸ばしていたら
兄の泳ぎの力量では
ふたり共に溺れ死んでいた
可能性が高かったからである。
もともと危険な土用波の時期に
海辺で遊ぶという選択をした時点で
彼らは間違っていたのだと説いたのだった。

私は昔、勤め人の頃、仕事の関係で3年間、
仙台市と福島県いわき市を結ぶ国道6号線を
毎週行ったり来たりしていた。
太平洋に沿って伸びる国道6号線は
当時別名「シーサイドライン」などと
地図に格好良く書かれていたと記憶しているが
(現在では陸前浜街道なる呼称が見える)、
実際に海が見えるのはいわき市に入る手前の
久ノ浜辺りだけで、後は小山の間をのらりくらりと走る単調な山道で、
どこが「シーサイド」なのかと小馬鹿にしていたものだった。
ただそんな道だからこそ久ノ浜辺りで海岸線が見えると、
毎回海がまぶしく新鮮にも見えたものだった。
そしてその浜の夏の終わりの風物詩が土用波であった。
浜のちょっと沖にあるテトラポットを重ねた防波堤を
何するものぞとばかりに打ち寄せる大波の勇姿は、
大海の、大自然の力強さの一端を見せつけていた。

会社を辞めて数年後、夏の終わりにこの浜で
地元の高校生が溺れ死んだといニュースを耳にした。
友人たちと浜で遊んでいて波にさらわれたという。
浜にしても川にしても毎年この手のニュースは絶えることはない。

どうか無意味で不要な危険を拾わぬよう、
残されし者が答え無き答えで悩まぬよう、
海や川での遊びは十二分に気を付けて欲しいと
祈るばかりだ。

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