旅の空色
2014年 2月号
『本を読め!』
「本は人が一生かけて知り得た事をたった一冊で教えてくれる」
私が機会ある度に呪文のように息子に説く言葉である。しつこいくらいに唱え続けている。
だが未だその魔法はかかっていない。
これまで息子に本を読ませるためにいろいろな工夫を試みてきた。
息子と二人、岩手や青森に旅行に行く際には、宮沢賢治や太宰治の本を読むことを
旅行に出掛ける前提条件とした。ひとりで読むのは辛かろうと一緒に朗読もした。
しかし息子はただ義務をこなすだけで終わり、読書は根付かなかった。
作戦を変えて、最初に物語りの面白さを謎めいて語ってみせた。これには食いついた。
赤毛の男のみ集めるという謎の集団や、死の間際に見るというまだら模様のひも。
拾った七面鳥の胃袋から出てきた世にも美しい宝石の話。言わずと知れた
サー・アーサ・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの物語である。
児童用にやさしく書かれたホームズの本を2冊まではこなしたが、結局そこで糸は切れた。
一連のこれらの試みに私が知り得たのは”馬を水場まで連れて行くことはできても、
水を飲ませることはできない”ということわざ通りの事実であった。
あれは小学4年生の時の授業参観と記憶している。先生がある女の子を指名して
「○○さんは本が大好きだから作文も上手ですね」とみんなの前で発表させたことがあった。
小鳥がさえずるように、テンポ良くすらすらと作文を読み上げる女の子の声としっかりとした
文の内容を聞いて、文字に慣れ親しんだ子供の実力に改めて驚き、感心したものだった。
国語・算数・理科・社会・体育、そして最近では英語とどれも大切な学問であるが、
基本解説には日本語の読解力が必要だ。だから小学1〜2年生の時には授業の半分を
国語に割くのだ。正しく日本語が読めなければ、正しく知識も吸収できないし、
正しく問題を読めなければ、正しく答えを導くこともできない。ゆえに普段から
自分に興味のあるものでいいから、読書に慣れ親しんで、文章を正しく読めるよう
心掛けねばならない‥となぜ読書が必要かその理由を息子に砕いて説明するのだけれど、
私の言葉は右の耳から左の耳に抜けて、空しくも馬の耳に念仏となる。
本も出会い
まあ、もっとも私は息子に高い期待をし過ぎているのかもしれない。
我が身を振り返れば私自身も小学生の頃は本を手に取る機会は少なかった。
それでもナポレオンや野口英世、キュリー夫人など伝記物は読んだものだ。
当時は読書が数少ない娯楽のひとつであ 青春SF小説の眉村卓(まゆむらたく。代表作『ねらわれた学園』)や
おどろおどろしく、また赤裸々に人間の本性を描いた横溝正史の推理小説。
新田次郎の歴史や実話に基づいた小説の数々。山岡荘八の家康・信長・秀吉の
歴史小説長編三部作など小説を中心に楽しんだものだった。
やがて受験生になると小論文に触れる機会が増えたせいもあって、本屋にずらりと並ぶ
講談社現代新書や岩波新書のシリーズの中からジャンルに捕らわれることなく、
目を惹いた題材を手に取るようになった。まあここまでは娯楽として、
また広く知識を得る手段として本を楽しんでいた青春時代であった。
そんな本のつまみ食いをしていたある日、一人の友人が「この本はきっと君に合うと思うよ」
と一冊の本を貸してくれた。W・カール・ビブンの『ケインズは誰が殺したのか?』という
題であった。アガサ・クリスティーの小説を連想させるこの本は、実は立派な経済学書
だったのだ。理論や数学が苦手だった私だが、この本は原理原論から距離を置いて、
私にやさしくわかりやすく経済の基礎を説いてくれた。
とりわけ私にとって画期的だったのは、経済学の歴史的経緯から学問にアプローチした点
であった。歴史学も歴史小説も大好きだった私にはとても飲み込み易かったのである。
頂上への道はひとつではないこと、得意なものを武器とすることを気付かせてくれた
良書との出会いであった。そんな私の性質を見抜いて、友人はこの本を薦めたのかもしれない。
この本をきっかけに経済の専門書も好むようになり、新しい道が開けた。そしてその延長で
最近巡り会ったのが2010年刊行の『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』である。
一流紙ニューヨーク・タイムズの記者が、あのリーマン・ショックの内幕を暴露したものだ。
日本ではあの経済事件は世界同時不況の始まりくらいの感覚かもしれないが、この本を読むと
世界経済がまさに破綻、そして壊滅の瀬戸際にあったことが生々とわかる話である。
ニューヨーク連邦銀行ビルに集められた大銀行の頭取たちが、まるで使い走りの小僧ように
命じられるまま黙々と作業をする様子。リーマン・ブラザーズのファルドCEOにおいては
素人並の感覚で危険なマネーゲームをしていた事実。当時のポールソン財務長官、
日本でいうところの財務大臣がひざまずいて、日本流には土下座で懇願する姿。
そして最後は自由資本主義の守護者たるアメリカが大銀行を管理下に置く結末で、
非常時の一時的手段とは言え、とどのつまりは国有化=社会主義化で終わる。
そんな緊迫したやりとりの一部始終を傍観者として彼らのすぐ側で見学できる本なのだ。
これは経済関連書籍であるが、ノン・フィクション・ドラマであり、さらには未知の世界を
垣間見る冒険書とも見れる。日本の、埼玉の、越谷の小さな商店の主が世界の巨人が集う
王宮に潜入し、そしてその正体を目撃した。
「本は、人が一生かけてやっと知り得たことを教えてくれ、過去はもちろん想像の未来にも
行けるタイムマシンであり、地球上のあらゆる場所やさらには宇宙の果てまで冒険でき、
人の心の喜びや悲しみを覗かせてくれたり、びっくりするようなもの、美しいもの、
醜いものを見せてくれたり、時には本が読み手に語りかけてきたりと、おまえの世界を、
心を、豊かにしてくれるものだ‥」と布団に入った息子に読書の大切さをくどくどと説くが、
そんな時は決まってさっさと深く寝入ってしまう息子である。しかしこれも作戦のうち。
難しい本や、ややっこしい話は無害な睡眠薬でもあるから。
■ 執筆後記 ■
ご多分に漏れず、現在こんな仕上がりです。
小学校6年生になった本年春、息子には
「お前も来年は中学生なんだよ。
もっと勉強が大変になるよ。
小学校ののんびりした勉強も今年で最後。
6年間の総まとめに、今年1年大切にしなさい」
と忠告しました。
が‥今だマイペースで本に手が伸びず、
写真のようにゲームに、追いかけっこに夢中で
中学生を目前とした自覚は全くありません。
そこで一計を立てました。
あすなろ書房から『小学生までに読んでおきたい文学』という
名著の短編集が出版されているのですが、
そのシリーズ6冊を6年生中の息子の必修課題にしようと
考えたのです。
早速シリーズ1作目の「おなしな話」を取り寄せて
現在私が目を通しているところです。
”自分(親)にできないことは子供に強要しない”というのが
私の教育方針のひとつで、まずは私が本の善し悪しと
名作と言われる内容を熟読熟慮しているのです。
その後は息子に本を渡して、
さらりと全体を一読させた後、もう一度1話ずつ読ませて、
内容について議論しようと考えています。
果たしてシリーズ6冊目まで完結できるのか?
それとも途中で父子喧嘩別れして挫折してしまうのか?
息子との二人三脚の始まりです。
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