旅の空色
2014年 4月号
『私が山形の山寺を再訪したい理由 2/3』
1100年の時を越えて
世に名言は数あれど、己の心の芯を射貫く名言はいと有り難し。
一生において無二の友を得るに似たり。人の出会いも数あれど、大方は互いの心の拠り所を
求むる所以にて、親しき間にも礼儀ありの理の如く間が大切なり。然れども真の友は
いずれかが世を去るまで寄り添う者なり。真の名言もまたかくの如し。
最近、1100年の時を越えて名言が私の元にやって来た。その言葉に触れた瞬間、
雷に打たれたように、ズドン!と一瞬のうちに私の目から頭に入り、足の指の先まで
熱く光るモノが抜けた体験をした。本能で名言であると確信した。その名言とは‥
『やまとうたは ひとのこころをたねとして よろずのことのはとぞなれりける』。
「やまとうた(大和歌)」の”やまと(大和)”とは旧日本の呼称で、その歌とは
[和歌]のことである。この古文を現代風にアレンジすれば、
「和歌とは、人の心から芽生えて、幾千幾万の言葉と、歌となったものだ」といった
ところだろうか。かといってまたまた私の物好きが始まって今度は和歌に目覚めた‥
というわけではない。私はこの言葉を聞いて、直感的に”やまとうた”というところを
”やまとことば”に置き換えた。そして「日本語は、人の心から生まれて、
様々な表現を試みる、しなやかで色彩に富んだ、世界でも類のない素晴らしい言葉だ」と
読んだのである。その日本語の究極の美の至高たる形が、五七五七七の文字数からなる
定型詩[和歌]であり、なんとさらに研ぎ澄まされた美が五七五からなる[俳句]となる。
紹介した『やまとうたは〜』の名文は、日本で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の
序文に編者・紀貫之(きのつらゆき)が書いた一文である。さすが醍醐天皇(だいご)の
信任厚き高級官僚、エリート中のエリート、うまいことを言うものだ。
とりわけ「種→言→葉」と木の起源と成長による枝葉の広がる様に日本古来の言霊の
思想を掛け合わせたところなど見事という他はない。ついでに「言葉」という文字の
意味を、重さをも時代を貫いて伝えているといってもいい(「言霊(ことだま)とは
口から出た言葉がその通りの結果をもたらす力があるといった、言葉に宿る不思議な
力を信じる思想である)。こんな名文、古文の授業でちゃんと紹介してくれていた
だろうか?私の若き頃にこの名文に触れていれば、その後の人生が大きく変わったかも
しれないなどと思うと、今更ながらも口惜しく、恨めしい限りであるが、
同時にたとえ先生が紹介してくれても、当時の私にはその素晴らしさをしっかり
受け止める技量はなかったともいえ、当時古文に潜在的な苦手意識があった私は
おそらくその授業の時は居眠りしていたのかもしれない。
この様に名言といえども、受け取る人の様々な事情や環境、タイミングによって
その効力を発揮するかはまちまちで、例え多くの人に支持される真理のような名言であっても
人によってはただの戯れ言になる場合もある。ゆえに今回紹介した紀貫之の言葉も
私の独り善がりの部分もあり、たとえ読者諸君が聞いてイマイチだったにせよ、
それは可不可ではない。
「しずかさ」を感じたい
NHKに「100分で名著」という番組がある。1回25分×4回の計100分の放送で
1冊の名著といわれる本を紹介する番組である。私はこの番組で紹介された名著の内容が
気に入ると、その番組用のNHK発行のテキスト(500円)を取り寄せている。
その名著のさらに踏み込んだ解説がほしいからである。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』は歴史学の知識としては知っていたが、文学としては、
古文はもちろん[和歌]や[俳句]に近寄り難さを感じていた私には無縁なものであった。
ところがこれが”紀行文”であるとなってくると今の私には話が変わってくる。
「旅バカ」を自称する私の心に火が付くのだ。松尾芭蕉が歌枕(うたまくら)に詠まれた
東北の名所・旧跡を辿るのが『おくのほそ道』だというのだから、これはある意味、
江戸時代の旅のガイドブックとも見えてくる(歌枕とは和歌で詠まれた名所旧跡)。
松尾芭蕉がどのような観光地を目指して旅をしたのか俄然興味津々となってきたのだ。
ところで先に紹介した紀貫之の名言。実はこのテキストで出会ったものであった。
テキストの著者であり、番組の案内人でもある長谷川櫂(はせがわかい)なる俳人が
和歌の真髄として紹介したのが紀貫之の一文であった。とりわけポイントとなるのが
心を文字で描写するというところ。これが和歌が最高文学の一端に位置付けられる理由という。
これに対して松尾芭蕉が新しく開いた俳風「蕉風(しょうふう)」以前の俳諧は
知的に古文を引用しつつも、皮肉やジョークを込めた、世俗的な俳風が主流で、
言葉遊びの域を出ない、文学とは程遠いものであったという。
『古池や 蛙飛こむ 水のおと』
江戸・深川の庵で芭蕉と弟子とが俳句の修練をしていた時、外でぽちゃりと音がした。
カエルかな?そんな雰囲気の中で、芭蕉はすぐに「蛙飛こむ 水のおと」と詠み、
しばらく瞑目した後に「古池や」と頭の句を付けた。松尾芭蕉の俳諧の新境地、
蕉風の誕生の瞬間である。「蕉風開眼(しょうふうかいがん)」と言われている。
実は芭蕉の庵の側に古池はない。どこに飛び込んだのかはわからないが、カエルが水音を
立てたのは事実のようで、その音で芭蕉の心に”古池”が浮かんだのを句に入れたのである。
「心の句+現実の句」、この合体こそが蕉風の真髄であり、和歌と同様に俳句を
文学の高い次元に押し上げた新しい俳句のモデルとなったと俳人・長谷川氏は語った。
で‥山形の山寺。『閑さや 岩にしみ入 蝉の声』と芭蕉は詠んだ。そしてここに
古池の句を並べる。『古池や 蛙飛こむ 水のおと』。俳諧に無知な私でもわかる。
全く同じ形である。「心の句+現実の句(現実に起こったこと+音の世界)」。
長谷川櫂氏のテキストを読むと、私のようなずぶの素人でも俳諧を見極めたような
気にさせられて、うまく乗せられてしまう。そして実際に蝉がジャンジャン鳴く山寺で
心の中に芭蕉と同じ”閑さ”を感じられるか、自分を試してみたくなったという次第なのだ。
だが芭蕉の旅した時と違い、我々の時代は”しずかさ”を味わうには厳しい環境かもしれない。
なにせ蝉の他に「長い階段だねえ」「頂上はまだかいなあ」「かなりきついわあ」と
口々に嘆く観光客という新種が巨万(ごまん)といるのだから。
■ 執筆後記 ■
風流には疎い私でも一目見てその良さを感じ、
いまでも心に鮮明に残る景色がある。
岩手県平泉の高舘(たかだて)の景色である。
その小山から見下ろす北上川は
何ともいい感じで、滑らかに、艶やかに、しとやかに
S字蛇行して田畑の広がる盆地を流れ、
これぞ日本の川といった感じの
くねりのよさを見せてくれる。
あの心を打つ微妙なバランス感はなんなのであろう。
盆地を箱庭的に見立てた小さく凝縮した世界観なのか、
それとも悩ましき煩悩を誘うエロチックな姿態の象徴か、
はたまた偶然の結果の大自然の造形美に対する敬意なのか、
景色を眺めながら答え無き答えを
様々な感性で思索してしまう、そんな景色である。
岩手県・平泉と言えば、何と言っても
ユネスコの世界文化遺産に認定された
中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつうじ)など
奥州藤原氏の遺跡、遺構の数々が有名である。
今やそんなビックスターの観光地に囲まれて、
高舘は源義経(みなもとのよしつね)の熱烈なファンか、
義経をちょいと思い出した様な観光客が訪れるような
静かなところである。
東北本線・平泉駅より北に向かい
滅多に電車の通らない踏切を渡って
線路沿いに1kmほど北に歩いたところにある。
え!?こんなところでもお金取るの?
といった具合の料金所でお金を払い、
高い階段を昇るとT字に道が分かれていて、
そこがこの小山の山頂というか、峰となっていて、
目の前に先に紹介した絶景がある。
右手奥に社があって、いつ作られたか迷う感じで
源義経の像が鎮座している。
この高舘は源義経の館があったとか、
最後の地だとか伝えられているそうだが、
はっきりはしていないようだ。
確かに防御向きの地形であるが、
住むには都人だった義経には不便そうだし、
戦うには平泉の都に近すぎるし、
私個人はいずれの説もいぶかしく感じる。
ただ平泉の景勝地のひとつであったことは
今も昔も変わらない事実だろう。
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