旅の空色
2011年 8月号
じっと庭を見つめる変な人
小さなお皿が何枚も並べられている。底の浅い皿の中には「はちみつ」や「砂糖」、「塩」に
「きゅうり」「バナナ」「ハム」「チーズ」「パン」など十ほどの食品が少しずつ入っている。
やがて小さな庭の小さな住民の見張りが一通り食品を見回ると、しばらくしてどんどんと
仲間の住民たちがその中のひとつの食品に群がり始めた。その小さな住民たちとは…
言わずと知れた蟻である。なぜこんなイタズラをしているのか。これは息子・れんくんの
夏休みの宿題の自由研究なのだ。まずは蟻は何を好んでエサとするのかの観察であった。
やはり予想した通り一番人気のエサはハチミツであった。大人からすれば至極単純な帰結だ。
しかし意外だったのは砂糖が不人気であったことだ。台所でうっかりこぼすと蟻が来るよと
怒られた蟻の大好物の定番と思われた砂糖を蟻は素通りであった。なぜ同じように甘い砂糖が
ハチミツに劣るのか?なんの差があるというのだろうか?もしやにおいだろうか。砂糖は無臭だ。
などと楽しく思考を重ねながら隣にいるはずの息子に問いかけると、すでに姿はなく
近所の子供と遊んでいた。「こらー。おまえの研究だろうが!」と怒鳴るとしぶしぶ戻って来る。
全く集中力のないやつだ。だいたい俺が夢中になってどうする。
しかし普段何気ない蟻の行動も改めて観察するとなかなか面白いものである。蟻は見張りが
エサを見つけるとその道筋に分泌液を残して仲間を誘導することはよく知られている。
でもよくよく見ると必ずしもその道しるべ通りに整然と並んで行き来するわけではない。
うちの息子のようにあっち行ったりこっち行ったり頼りのないヤツが結構いるのだ。
この蟻の観察という自由研究の課題は嫁さんの入れ知恵らしいが、時を同じくして偶然にも
私も蟻の世界にとても興味を抱いていた今日この頃であった。そのきっかけとなったのは
「働かない蟻に意義がある」という新書であった。蟻は「アリとキリギリス」の童話や
「蟻のように働く」といった言葉のように働き者の代名詞的存在だが、その新書の帯には
「蟻の7割は働いていなくて、さらに1割は全く働かない」と書かれていた。今までの通説を
覆す何とも刺激的な指摘である。本当は蟻の8割は植木等ばりの無責任男、いや女なのだ。
女としたのは蟻は繁殖時以外はメスのみで構成される女性社会だからだ。勤勉で働き者の
立派な社会人になるように日々勉学に生活にと厳しく指導している息子にはとても言えないが、
いかにしたら働かなくて済む蟻になれるのかと興味をそそられた私であった。
ダーウィンを脅かした蟻
新書の著者・長谷川英佑 先生(はせがわ えいすけ。北海道大学大学院農学研究院 準教授)
によれば蟻の研究成果、例えば「8割の蟻はほんんど働いていない」などと発表すると
一般の方から必ず日々蟻の観察など暇な人だというコメントをいただくらしい。
確かに昆虫である蟻の社会の研究の先に何か人間に役立つものがあるか疑問だし、
蟻相手の観察に時間を掛けるのは一見全く暇人の技である。しかしこの蟻の社会の存在は
世界で生物の根本の真理であると考えられている大仮説「ダーウィンの進化論」を脅かす
存在であったとなるとその道の研究者でなくても研究対象の重要性は自ずとわかるはずである。
ダーウィンが発見した進化論、生物はその時代時代の自然や競争の環境に合わせて
自ら進化してゆくという生物法則は太陽の周りを地球が回っているという地動説以来の
大カルチャーショック=破壊を伴う文化的衝撃であった。
なぜならそれまでは聖書の教えによって人や生物は”自ら”ではなく、
神の意志によって造られたものと教えられてきたからである
(実際、敬虔な旧約聖書信仰者によって反進化論博物館なるものがアメリカに建てられている)。
地動説の大混乱もあってダーウィンはこの進化論の発表には慎重に慎重を期したそうだ。
反証(進化論を否定する事例)の可能性を自ら検証し、進化論を確固たるものとした上で
発表とすることにした。そのために多くの時間を費やして実際の発表は彼の晩年にずれ込んだ。
その進化論の障害のひとつとなったのが蟻に代表される真社会性生物(=社会を構成する生物。
蟻と蜂が代表的)であった。なぜ進化論の反証対象となったのか。それは働き蟻の存在であった。
進化論の大前提では生物は皆自分の遺伝子を残すべく切磋琢磨する。しかし子供を産まずに
育児のみを行う働き蟻の「利他的行動」、自らを省みずに他に尽くす行動は進化論の大前提に
反するものであったのだ。道徳や愛など精神世界の広い人間ならまだしも、とても感情があるとは
思えない蟻や蜂などが利他的行動する理由がわからなかったのである。結局ダーウィンは答えを
得られず進化論においては説明できない「謎」とされた。
ダーウィンが進化論を展開した著作『種の起源』が出版されてより150年。
遺伝子解析や積み重ねられてきた観察により蟻の利他的行動を説明する幾つかの仮説は
立っているが、未だ確証に至るものは見つかっていない。
目指すはキリギリス型蟻?ありっ!?
ところで働かない蟻の話である。蟻は一見女王を頂点にしたピラミッド形の階層社会と
解釈されていると思うが、実は役割は違えど皆平民の世界だそうだ。エサの発見などを知らせる
コミュニケーション手段は持つが、つまりこれといった命令系統はない。そこでよく働く蟻と
あまり働かない蟻の話となる。エサの運搬や卵の世話などその時々によって必要な人員を
調整するのが各蟻のやる気の度合いとなる。小さな仕事はいつもやる気満々の蟻がテキパキと
片付ける。しかしそれらの蟻でも手に余る仕事は今まで遊んでいた蟻のやる気をついに刺激して
やる気が高い順に次々と仕事に加わるのだ。このようにリーダーはいなくとも必要な労働力を
調整しているという仕組みだ。しかし中にはやる気度が極めて低い蟻もいて、
それが一生働かずに済む1割の蟻となる。しかし彼らとて決して無駄ではない。
巣が未曾有の災難に見舞われて多くの仲間が失われた時にはついにテキパキと動くのである。
本質的に蟻に怠け者はいない。ただ出番がないだけである。また蟻の一生はその労働量で決まり
やる気満々蟻は短命であることが分かっている。やる気のまばらは寿命のまばらとなって
巣を維持管理するために適度に年齢人口を分散させてもいるのである。
人間の世界では完全雇用=すべての人に職がある状態を目指すのが経済学の使命のひとつである。
しかしそれはよく聞く失業率で0%ではない。失業率1〜2%が完全雇用の状態と言われている。
自分に合った仕事を探している人が必ずいるからである。それにしても近年の「雇用なき
経済回復」は不健全である。どの国の人も豊かになるためには貪欲だ。そしてみな働き者ばかり
である。蟻ですらうまいことそれぞれの個性(=やる気)を生かしてハッピーにやっているのだ。
莫大な英知を持つ人間に最大公約数的幸福を手に入れる手段が見つからないわけはない。
息子の蟻の自由研究と一緒にこのエッセイも提出したいが、たぶん先生に返されるだろう。
「お父さん。これは読書感想文です」と赤ペンで書かれて…。
■ 執筆後記 ■
上記エッセイで触れたように
単純に生命の生きる目的を示すなら
それは自らの遺伝子を残すこと、
しかも最大限に残すことにある。
植物や動物は環境適応のために
進化してきたし、また今も進化し続けているが、
それも究極は上記の最終目的を達成するためである。
とても単純な理屈で分かり易い。
百獣の王、ライオンはオス1頭にメス数頭以上の
いわゆるハーレムの群れで生活しているのはよく知られている。
他にもオスはいるが、ハーレムを作れないオスは
オス同士で群れを作り、ハーレムの後釜を
虎視眈々、もとい獅子視眈々と狙っているそうだ。
ハーレムの長たるオスが、そんな独身オスに負けたり、
何らかの理由で群れを去ると、
新しいオスが長となり、メスもそれを受け入れる。
ただその時には前の長の子供ライオンは
新しいオスにそこそこ大きいと追い出されるか
小さいと皆殺されてしまう。
自らの遺伝子を伝える子供以外、
育てる気はさらさらないのだ。
なんだか非情に見えるが、
最初に紹介した
生物の生きる掟に従っているに過ぎない。
ライオンもそんな畜生な生態だと思っていたら、
あるテレビ番組で例外的なケースを見る機会があった。
それはメスライオン1頭と小さな子供4頭の群れであった。
長のオスが若いオスに負けて群れを去り、
子供達が殺されそうになった時、
2頭いたメスの一頭が新しいオスと戦って、
子供達を守り切り、残ったメスに子供を託して死んだのだそうだ。
2頭のメスは姉妹だったそうで、姉は自分の子供2頭を
妹に託して死んだのであった。
残った妹のメスライオンはハーレムの慣習を捨てて、
一人で子供達を育てる決意をしたらしい。
その成長の記録を追ったテレビ番組であった。
しかし世間というか、大自然も甘くはない。
通常群れで狩りをするのが常のライオンであるが、
メスライオンは一匹で獲物を捕らければならくなった。
結果5頭の群れは飢えに苦しむ日々が続くことになる。
通常の生態よりより死と隣り合わせな生活ながらも、
何とか苦渋の日々を乗り切り、やがて成長した子供達も
狩りを手伝えるようになると、
その小さな群れの生活は安定していった。
そのメスライオンのシングルマザー奮闘記ともいうべき物語に
私は痛く感動を覚えたのだった。
メスライオンはなぜ自らの子供と分け隔て無く、
姉ライオンの子育てにまで命を賭けたのだろうか?
そもそもなぜ危険なシングルマザーの生活を選んだのだろうか?
「愛」であろうか?それとも血の近い血縁だからであろうか?
子供もいずれは頼りになるという打算からか?
オスどもの無頼漢に辟易したのか?
それとも盾となった姉の恩に報いたかったとか?
そこらへんはそのメスライオンに聞かないとわからないことだ。
本文の蟻の話にも関係あることだが、
自分の遺伝子を、同類とも競合しつつ残そうとする生物が
自分以外の同類と協力関係となり、
ひとつの社会形態を作る動機にふたつの「仮説」がある。
ひとつは「血縁選択説」である。
個体では弱い生き物も、群れとなることで
全体として強くなれる、強さをアピールできるのが
自然界で生きる知恵のひとつであるが、
さらに血が近い血縁で固めることで、
同型の遺伝子を残す可能性が高まるという仮説である。
動物の群はこの戦略が多いと聞いた。
先に紹介したメスライオンも
特異なケースながらも結局は
自分にかなり近い姉の血縁の子供たちも保護することで、
本能的に自分の遺伝子を残す可能性を
高めていたと言えるかもしれない。
もうひとつは「群選択説」である。
各個体の存続よりも「群(むれ)」の存続に重きを置き、
群の中で役割分担を決めて、
全体の形(単純ながら社会)としての
生き残りを目指し、遺伝子を繋いでゆく、
繁栄させて行く戦略である。
一見「血縁選択説」と重なるようにも見えるが、
同じ母体から生まれながらも
個体によっては生殖能力がなく、
役割に特化しているのが特徴である。
「群」全体が生き物といっていいかもしれない。
蟻や蜂がその代表例である。
いずれも生き物が同種で徒党を組む動機の「仮説」であるが、
「血縁選択説」にしても「群選択説」にしても
ちょっと馴染みがあるように思われないだろうか?
「同族経営」、「会社人間」、「民族主義」、「全体主義」、
「梨園」に「寄らば大樹の陰」。
なんだかんだ難しいこと言いながらも、
芽はこのふたつの仮説のいずれから生まれたものかもしれない。
※上記の『執筆後記』は本文中で紹介した
長谷川英佑 先生著作の新書「働かない蟻に意義がある」
を参考に書きました。
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