旅の空色


2011年 3月号


3月号は東日本大震災が起き、また社会的混乱の中で、休載となりました。


■ 回想後記 ■

 私の人生において大きな影響を与えたふたつの死がある。

 ひとつはある若人の死。
二十歳直前に逝ってしまった。突然の交通事故で。
小さい頃から機会あるごとに遊んだ。
明るくて優しいて挨拶のよい子であった。
大柄な体で健康優良児でもあった。
「死」の一報を聞いた時に、「馬鹿な」と応えた。
そんな事あるはずはないと信じなかった。
冷たくなったロウのようなその子の肌に触れ、
その傍らでおろおろ泣いている父親を見て
やっと現実を少し受け入れられた。
立派な葬式であった。
平日にも関わらずたくさんの友人に囲まれて、
入社まもないながらも会社のお偉いさんも参列した。
父親の「代われるものなら代わってやりたい」
という言葉にやり切れなさが響き、
同時に親より先に逝く親不孝を感じた。
会社の上司は弔辞の最後に
「さよなら。○○くん」と締めくくった。
なんか簡単な別れだなとその時は思った。
でもずうっと後になってからその「さよなら」がだんだん分かってきた。
どこかで気持ちを整理して、
「さよなら」と言わなければならないんだと。
思い出が浮かんではその度に涙もしたたり落ちる葬式だった。
まだまだ先があった若い人の死は辛すぎると初めて経験した。
今でも近くに行くと必ずその子の墓前を訪れる。
今までで一番死を身近に感じさせてくれた人だった。


もうひとつは東日本大震災の犠牲者の死である。
ほぼ大津波による死であった。
大津波から逃げられたか否か、
高台に逃げ切れたか否か、
そのただ1点で多くの人々の生死がほぼ決した
その事実に驚愕した。
老いも若きも、男も女も、今までの善行も悪行も、
能力の優劣も社会的成否も関係ない。
長らく人間の作った社会の中で、人間の作ったルールのもと、
人間らしい生活を追求してきた人間に、
大自然は容赦なく自らのルールの則ってそのちからを行使し、
生死の判定を下したその無慈悲さに唖然とした。

あの夜、暗闇の中で所々燃えさかる気仙沼の町をテレビの中継で見て、
涙が止めどなく流れた。
さらに無情にも雪までちらつき始めて、
暖かい部屋にいる自分が恥ずかしかった。

一つ戻る