旅の空色


2011年 6月号




北への思い

募(つの)る不安の旅路

 どんなにこの時を待ったであろうか。やっとこの道を走れる喜びと彼の地を自らの目で
確かめる不安とを胸に抱えながら車は北へ北へと滑走していた。何度も何度も通った道なので
照明灯の少ない真っ暗な真夜中でも周りの景色の移り変わりは昼間のように目に思い浮かんでは
流れてゆく。やがてみちのくの入り口として名高い白河の関を超えると走行に異変を感じ始めた。
いつもならよく舗装された道を滑るように走る車が時折軽くジャンプするのがわかった。
よくよく道を見てみると、縦に横に線状の舗装痕がライトに次々と浮かんでは消えるのが見える。
3月11日の大震災の爪痕だと直感した。大震災直後、唯一東北との輸送パイプを維持していた
東北自動車道も全くの無傷とはいかなかったのだ。高速で走る車はほんのわずかな傷の段差でも
大きく捉えてその痛みをハンドルに伝えてきた。震源地よりだいぶ離れたこの場所でも
この状態である。目的地の仙台市やさらに北の栗原市のことを思うと心配が増すばかりだった。

ああ、仙台市

 福島県白河の関からの高速走行は路面状態に気を配りながらのものとなったが、ほぼ予定通り
明け方には仙台市の妻の実家に着けた。この辺りは震度6弱の揺れだったそうで、周りの家には
瓦が落ちて青いビニールシートを屋根に掛けている家も見られた。しかし幸いにも妻の実家に
目立った損傷は見当たらずとりあえずは少しほっとできた。ただ実際は傷が目立たないだけで
外壁のあちらこちらに亀裂が入ったそうだ。早速に器用なお義兄さんが手前で修繕したので
ほとんどその痕跡は目立たなくなっていたのだった。挨拶もそこそこに妻と息子を実家に
預けると私は国道4号線をさらに北上した。途中JR仙台駅より東に5kmほど離れた
卸町というところを通るが、大震災直後はこの付近まで津波が来て日差しに乱反射する水面が
国道から見えたそうだ(仙台港からはおよそ4km)。震災より2ヶ月を過ぎた今では
水は引いていたが、所々倒壊したビルや住宅が未だ生々しく残っていて痛ましかった。
仙台市北の泉インターよりまた東北自動車道に乗って北上することおよそ50kmのところに
最終目的地の栗原市はある。前回のコラムでも紹介したが、今回の大震災で最大震度7に
見舞われた市である。ただ今回の大震災の最大の悲劇と人的・物的損失は太平洋岸の大津波で
あったので栗原市が報道で取り上げられることは少なかった。また不幸中の幸いと言おうか
巨大地震にも関わらず地震による死者もゼロであったのだ。この様に語ると運のよい地に
思えるかもしれない。しかし栗原市はここ数年度重なる災難に見舞われ続けてきたのだった。

彼の地の実情

 本当はもっと早くこの地をお見舞いに訪れたかった。電話でのやりとりで友人やその家族に
怪我はない確認はとれていたが、やはり実際に顔を見るまでは気が気でなかったのだった。
実際に当初は4月10日頃に行き帰り車で訪問することを計画していた(東北新幹線は
5月連休前にやっと全線開通した)。しかし4月7日の深夜、状況はさらに悪化した。
大震災からおよそ1ヶ月を経て、栗原市がまた最大震度地の余震に見舞われたのだった。
しかも計測上は震度6強であるが、体感した揺れは大震災の震度7以上だったそうで、
大震災で痛んだ多くの家屋にとどめを刺すような被害をもたらしたのだった。
 3月11日の大震災以来、多くの家庭でそうであったように我が家でも
非常時な思いをいくつもした。商品の破損に後片付け、そして食料不安のパニックに
陥ったお客さんへの対応が1週間ほど続き、計画停電に伴う不安定なお店の営業に加えて
次は天然水パニック買いになるなど、今まで経験にないいくつもの対応に迫られた。
日々変わる急激な環境変化に振り回された日が続いたが、それでもいつも心の片隅で仙台市や
栗原市の知人・友人たちの苦境を案じていた。津波の被害に遭われた沿岸部の人々の映像を見る
度に毎回心が引き裂かれる思いがし、同時に映像には映らない友人たちの苦難も想像した。
特に4月7日の大きな余震以降、電話の向こうで空笑いしか出ない栗原市の人々が心配だった。
願わくば大震災以前の生活に戻れればどんなにいいだろう。しかしもう二度と同じ世界には
戻れない。願いと嘆きはみな同じだったと思う。
 栗原市は3年前の「岩手宮城内陸地震」の震度6強、本年3月の本震の震度7、
そして4月の余震の震度6強と3度もの大地震に見舞われた。一見見渡す限り無事に家々は
建っているように見える。しかし本当は基礎も柱も梁も3度の大きな揺れでだいぶ弱くなっている
のが実情なのだ。この市に友人は5人いて、直近の4月の余震で1軒は家が全壊、2軒は半壊、
あと2軒は瓦が大きく剥落するといった惨状であった。訪問した日は1日かけて一軒一軒丁寧に
お見舞いの挨拶に回った。家ごとの被害を目の当たりにすると慰めの言葉も出なかったが、
ただひとつの救いは彼らが明るく前向きに歩んでいる姿であった。当初みんながかなり精神的に
打ちのめされた様は電話での会話でひしひしと伝わり聞き手としてもとても辛かった。
でも4月の余震から1ヶ月を経て、確実に前を見て歩み始めている彼らの姿に悲壮感はなかった。
復興のためにはお金はあるにこしたことはないが、栗原市の彼らがもっと大切なものを
教えてくれた気がした。

息子と一緒に

 来月7月の16日(土)と17日(日)の両日、仙台で『東北六魂祭』なる祭りが開催される。
今までにないイベントで東北地方の復興を願うのが一番の趣旨だそうだ。
今回のお見舞いの帰り道、東北新幹線に乗って気がついたが(妻と息子は車ごと仙台の妻の実家に
預けてきたのだった)、5月の大型連休にも関わらず列車は閑散としていて、連休に間に合う
ように昼夜の突貫工事で新幹線を復旧させたが、いかに今回の大震災が東北地方の観光にも打撃を
与えたかを身に染みて感じてきた。仙台市内のホテルなども来客の見込みが全く立たず、
予約の状況を見ながら迎い入れる調整をしているのがホームページからも見て取れる。
さらに東北各地域の旅館等宿泊施設ではそこで働く従業員の働く機会を始め、日々苦渋の中で
過ごしていることだろう。このお祭りには観光回復の起爆剤としての期待も強いに違いない。
 今回の『東北六魂祭』は宮城・仙台市を代表するお祭りの『七夕祭り』に加えて
青森市の『ねぶた祭り』、岩手・盛岡市の『さんさ祭り』、秋田市の『竿燈祭り』、
山形市の『花笠祭り』、そして福島市の『わらじ祭り』と東北6県の各県庁所在地を代表する
大きな祭りが杜の都・仙台で一同に会するビックイベントだと聞いた。
JR東日本も東北訪問を応援していて新幹線および在来線が1日1万円ぽっきりで乗り放題と
うれしいサービスを用意している。一度栗原市の田園風景とそこの暮らしを我が息子・錬くんに
見せたいと思っていたこともあり、今回のお祭りと絡めて親子2人で訪問する予定だ。
趣味と教育を兼ねた小さな東北支援だが、一日も早い復興の願いはみんなと同様に大きい。


■ 執筆後記 ■

 翌月の7月、エッセイに予告した通り
息子とふたりで宮城の友人を訪ねることになった。
その子細は次のエッセイおよび執筆後記に譲るとして、
家族旅行にしても、父子ふたり旅にしても、
またちょっとした遠出にしても、
毎度息子に言っている言葉がある。
それは「お前だけのために旅行(出掛け)に
行っているんじゃない」ということ。
確かに息子のためにもいろいろと考えてはいるが、
基本家族全員が、自分も含めて参加者みんなが、
最大公約数的に楽しめるように
私は計画を立てている。
だから時には大人向けの楽しみ、
例えばお酒を呑むことや、
土地の郷土料理を楽しむこと、
名所や史跡を巡ることに
時間を掛けることがあるので、
それを承知の上でならついてこいと言う意味を込めて、
「おまえのためだけじゃない」と
諭しているのである。

その意味でも今回の宮城の友人訪問は
大震災での友人の心労を労(いたわ)るのが
第一目的であって、
もともとは息子の自立心を助長するために考えた
父子ふたり旅ながらも、
そこのところはよくよく息子に言い含めて、
独り善がりなことをしないよう、
言い出さないように注意していた。

子供には大人をほころばせる(=笑顔にする)
ちからがあると前々から感じてはいたが、
今回もそれを強く感じる機会だった。
大人同士で難しい顔を突き合わせて、
大震災の労苦やその後の影響などを論じるよりも、
残留放射能による風評被害のある中でも、
そんな心配をモノともしない子供の笑顔のあることは
何よりも励みになると感心した。
友人には息子の訪問がよほどうれしかったようで、
早朝の川釣りに備えて夜中の2時から起き出して、
竿や仕掛けの用意をしていたと後から聞いた。


早朝5時、日の出と共に川釣りの挑んだ。

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