旅の空色
2011年 5月号
『3月11日あの日』
あの日、あの大きな揺れからどれだけ多くの人の人生が変わったのだろう。
地震の揺れで思い出深い我が家を失ったり、大きく壊されたりして失意の底に落とされた人も
いるだろう。不運にも倒壊に巻き込まれたり、地震の派生事故で亡くなられた人もいるだろう。
しかし日本史上最大の地震の悲劇は本震の10分後から始まることとなった。穏やかな海は豹変し
怒濤の海水は街や家々、田畑を襲ってそれに備えられなかった老若男女、幼き命まで奪った。
命を家財を目の前で失った人々の絶望の深さは当事者以外は推し量ることはできないだろう。
だが私を始め多くの人々がその鳥瞰をテレビという媒体を通じてリアルタイムで目撃した。
繰り返し起こる大きな余震の中でテレビに映ったその大惨事の光景は観るものすべての心に
畏怖(いふ)の念を思い起こさせ、それぞれの生涯に残る深い痛みの烙印を焼き付けた。
また地震により電気・ガス・水道・交通と広く社会インフラがストップし、帰宅難民になったり、
身近な日常生活にたくさんの不便を感じるなど大きな不安に襲われた人々も数知れない。
あの日よりそれぞれの人にいつもの日常と全く異なるドラマが数多く生まれた。
生死を分けたものもあれば、文明の恩恵から突き放された物語もあり、恐怖の体感や見えない敵に
怯えたものもある。それぞれのドラマとたくさんの思いが生まれた中で、もっとも身近な
あの日以来の私自身の軌跡をここに記し、自身の内なる変容を探る試みをしようと思う。
3月11日午後の始まり
聞き慣れないサイレンに私たち夫婦は顔を見合わせた。市のところどころに立つ防災無線の
スピーカーは子供の帰宅時間を知らせる音楽と訪ね人の案内が主で、その聞いたことのない
サイレンは最初なにかの訓練か冗談かと思った。続いて自動音声と思われる女性の声で
「大きな揺れが来ます」と警告が‥。これは訓練ではない…と直感した。
いつか聞いたことがあるが大きな揺れに先立つ地震の震動であるP波を機械が関知して
警戒システムが稼働したのだと推察した。ついにこの日が来たかというのが第一考だった。
幼き頃よりいつか関東大震災が来ると繰り返し聞かされ、そう信じてきた私は恐怖と半ば諦めの
気持ちでその運命の時を待った。5・6秒後か、家が大きなきしみを立てて揺れ始めた。
確かに今まで経験したことのないおそろしい大きな揺れだ。私と妻はお店裏の居間にいて
倒れそうに揺れる食器棚を一緒に押さえるので精一杯だった。母はお店のレジに座って
店番をしていた。めずらしく母のお姉さんが訪ねてきて話している最中だった。母と叔母
ふたりのことは気になったが、とても助けに行ける余裕はなかった。
揺れはいつ収まるとも知れず続き、やがてお店の方でバーン、バーンと音がし始めた。
棚の商品が落ちて割れる音だとすぐにわかった。もっと悪いことが近づいてくる足音に聞こえた。
さらに揺れが強くなったら…、私は最悪の事態を想像した。棚は押さえきれなくなり、
家の壁は歪み、そして天井が崩れてくる様を想った。その時はすぐ側にあるこたつ兼食卓の下に
妻を押し込み、自分も逃げ込まなければならないと身構えた。母と叔母には申し訳ないが
最後の行動を心に決めていた。幸いにもその必要はなくなりやがて揺れは収まっていった。
母や叔母に声をかけると元気な返事が返ってきてほっとした。部屋の蛍光灯は点いていて
通電していたので私はすぐにテレビをつけた。やがて映った臨時のテレビ番組は
東日本の地図表示の上に各地の震度を告げていた。
我が越谷は震度5強の表示だったと覚えている。次に北の方の震度を確かめた私は
愕然とし「またか」とつぶやいた。最大震度7・宮城県栗原市とあった。そこは大切な
お米の仕入れ先であり、十数年来の取引をもって親しい友人となった農家数件が暮らす土地だった。
「またか」とつぶやいた”また”は2度目を意味した。この宮城県栗原市は3年前も
「岩手・宮城内陸地震」という後付名の大地震に見舞われていたのである。記憶にある方も
多いと思うが、土石流により沢に建っていた旅館が流され多くの宿泊客が巻き込まれた
あの災害である。しかし今回の規模はその時よりも桁外れであることは、ここ越谷での揺れの
大きさからすぐにわかった。私は急いで電話をかけ続けたが栗原市にはやはり通じなかった
(3年前の地震の時は幸運にもすぐに電話が繋がり現地の様子を知って安心できたのだった)。
加えて震度6強に襲われた仙台の妻の実家も気になったがこちらもやはり繋がらなかった。
さらに本震から2時間後に映った仙台空港を襲う津波の映像は心配を極限まで大きくさせた。
妻の実家は空港から3kmほどの近場で、以前より津波の到達が予想された地域だったのである。
あの日は大きな余震も多く、また東京都心を始め多くの社会インフラが前代未聞の
麻痺状態にあったので、お店は夕方早々に閉めてテレビの地震情報をひたすら聞き入っていた。
津波後に火事で燃えさかる気仙沼市の映像、そして無情にも追い打ちをかけるように被災地に
降り出した冷たい雪。彼の地を想うといつも通り温かいご飯を食べられる自分が恥ずかしかった。
夜11時を回った頃、携帯電話に栗原市の2軒の農家から電話があった。こちらからかけた
着信の記録があったそうだ。栗原市の状況は想像していた通り悪かった。いずれの家でも
なんとか家は建っているものの損傷は激しく、余震によってはいつでも外に逃げ出せるよう
準備しているという。いつもは屈強な男たちの声にも力がなかった。私は仕方のないことながら
何もできないことを詫びるのが精一杯だった。しかも栗原市にはさらなる試練がずっと後に
待っていることを彼らも私も知る由はなかった。
数日を経て栗原市の友人すべてと連絡が付き、その家族等全員に怪我はないことが確認できた。
妻の実家も津波の被害も怪我もなく、とりあえずひと安心できた。すぐにでも宮城の知人たちに
支援品を送りたかったが、宅急便を始め物流は完全にストップしていた。自ら車で届ける手段も
思案したが、東北自動車道はほぼ無傷ながらも緊急車両専用の臨時体制で使えなかった。
また労力的にも支援が無理な状況が大震災の翌日から始まっていた。パニックである。
大震災の翌日より1週間ほどの間、万一にとお米を求めるお客の対応でお店から手が離せなく
なっていた。その様子は次回に記すが、中には殺気立ったお客もいて、とても店を空けられる
状況ではなかった。結局は何もできない自分に苛立ちが募るばかりの私だった。
その時私にできたことはまめに電話をかけることだけだった。でも「がんばれ」とは言えなかった。
脳梗塞で半身麻痺した私の母の時もそうだったが、努力ではどうしようもないことを前に
「がんばれ」のかけ声は返って相手を傷つける場合があったからだ。しかし後日農家の友人たちに
とても感謝されたことのひとつはまめに電話で話せたことだという。栗原市も人の繋がりの
強い農村部であるが、大震災後は大事な交通手段である車のガソリンが枯渇し(関東地方以上の
ガソリンパニックだった)、思うように近隣との連絡もままならない状況だったのだ。
「話を聞いてくれる相手」も必要なアイテムだったのである。
■ 執筆後記 ■
東日本大震災からおよそ2週間後、
私は宮城県栗原市の友人たちに
支援品を届ける決意を固めていた。
相変わらず被災地の物流事情は悪く、
食料品は思うように手に入らない状態だったし、
さらに赤ちゃん用を始め雑貨なども不足していたからだった。
この大震災で唯一の幸運は
東北地方を貫く高速道路、
東北自動車道がなんとか生きていることだった。
高速道路近くの農家からの情報で
トラックが頻繁に行き来できていることを確認できたのだ。
ただ被害の少なかった関東圏でも
しばらくはパニック状態となり、
買いだめが起きていて、
本当に物資が必要な激震地域に
モノが回らない状況が続いていた。
私はまず車の走行ルートを考えた。
東北自動車がもっとも便利であるが、
当時は通行規制が掛かって
許可を受けた車しか通れなかった。
そこで上越自動車道で新潟に行き、
日本海側を走る国号7号線を山形の酒田まで北上して、
そこより47号線に折れて東進し、
奥羽山脈を越えて宮城県栗原市に入る計画を立てた。
もっとも道路の状態が心配された国道47号線の山道も
どうやら使えそうだとネットで確認できたのだった。
次に問題なのは車の燃料の確保であった。
満タンでスタートすれば、目的地までは余裕で着けるが、
帰り道に山形の海沿い辺りで給油が必要な計算だった。
ガソリンそのものが不足する中で、
果たして山形でうまく給油できるかどうか。
そこで休息も必要なこともあって
宿に泊まる条件として、給油所の紹介を頼むことを考えた。
そんなこんなと計画を練っている最中、
大震災後2週間を経て、どうやらクロネコヤマトが
各地の営業所までなら荷物を届けられるという報が入った。
早速に私は被災地域の友人たちと連絡を取り、
必要な物資を現地の営業所まで送り、
結局は自ら足を運ばなくても済む結果となった。
しかしもしあと2〜3日経っても状況の改善の兆候がなかったら、
きっと強行軍していただろう。
大震災より3週間後、東北自動車道の通行規制が解除されると、
知人のひとりは危険ながらもありったけの手持ちタンクにガソリンを入れて、
宮城の親戚、知人に車で届けていた。
それほど現地では燃料が不足していたし、
みんな少しでも人を助けたいと、自分のできることに一生懸命だったのだ。
やがて大震災後およそ50日を経て、
東北新幹線が東京から仙台まで復旧し、
仙台の嫁の実家を始め、北部の栗原市の友人たちまで
安心してお見舞いに行ける環境が整った。
その行程は次月、6月のエッセイの紹介となる。
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