旅の空色


2012年 1月号




サンタは”まだ”います!

 私も昔、子供の頃サンタクロースの存在を信じていた。
その頃の私の家ではほしいおもちゃを母に告げると目の前でサンタに電話をしてくれた。
そして24日、クリスマス・イブの夜、布団に入った私は一目サンタの姿を見ようと
多くの子供がそうするように布団に深く身を隠してその時を待った。しかしやがて
暖かい布団は眠りを誘ってこれまた多くの子供がそうであるようにその姿を確認することは
なかった。そして翌朝枕元に置かれた希望のプレゼントと喜びの対面となった。
 そして今立場は変わった。今度は正体を隠しつつ私がサンタになる番になった。
クリスマスが近づくと小学3年生の息子に何がほしいか探りを入れる役になったのだ。
だが今年の息子の反応は例年と違った。「今年はサンタさんに何をお願いする?」と聞くと
「サンタクロースってパパかママなんでしょ?」と聞き返してきたのだ。
どうやらませた同級生からつまらぬ情報を仕入れてきたらしい。「どっちかなあ?」と
いやらしい疑いの目付きで代わる代わる私と嫁をうかがっている。しかし未だ確信には
至っていない様子ありありでもあった。まあもうそろそろ真実を知ってもよい年頃でもある。
ただ私としてはちょっと大人びた最近の子供の姿に少し不満もあった。そして夢のある
いたずら心もくすぶっていた。だからあえて「サンタはいるよ」と息子にきっぱり反論した。
「どうしてもその姿を見たければ夜中起きて見張っていれば」と言うと息子はその挑戦を
受けて立った。息子の得意技のひとつは布団に入ると1分で寝てしまうことである。
とりあえず今年のサンタクロース存在説はこれで保証されたようなものだった。
しかしこの存在説を覆す危険な人物もいた。来年早くも中学生となる従兄弟のたっくんである。
さすがにこの年齢になるとクリスマスのなんたるかはすべて知っている。最近友達との付き合いが
多忙ですっかりその姿を見る機会が少なくなっていたが、クリスマスやお正月とかき入れ時を
控えてニヤニヤしながらやって来た。私は早速に彼を捕まえて「れんくんの夢を壊さないよう」と
予め注意すると「まだ信じているんだ」とさらにニヤリ顔。息子・れんくん相手に綱渡りのような
会話を楽しんで帰って行った。

Xデー当日

 さていよいよクリスマス・イブ当夜。「パパとママ、どっちが来るのかなあ」とかまをかけ
ながら息子は寝室に向かった。今夜はがんばっって起きているのだろうか。
しばらく間を置いて嫁に様子を見に行かせるとやっぱり爆睡していた。まだまだ子供である。
0時過ぎ床に入ろうとおもちゃを抱えて寝室に向かう。大きなおもちゃはかさばり、がさがさと
音を立てて冷や冷やとする。しかしやっぱり息子は爆睡中であった。普段からよくよく快眠に
できているらしくちっとやそっとでは起きない息子である(しかしその延長で朝の寝起きも悪く
毎朝困ってもいる。誰の血を引いたのか我が家には朝弱い人は他にいない)。
深夜2時過ぎ、一度目覚めてしまった私は隣の息子を見た。すると息子はガバッと上体を上げて
枕元の時計をちらっと見た。「2時過ぎかあ」とつぶやいてまた布団にくるまった。
いつもの寝ぼけだ。息子は爆睡する割には寝ながら上体を起こしたり、はっきりとした寝言を
言ったり、時には一瞬目を見開いたりするのである。目覚まし時計の先にある大きな荷物に
気が付いていない様子なのが寝ぼけの証拠であった。
私は布団の中で思わず苦笑した。
 朝方6時過ぎ。冬の朝はそろそろ明るくなってきて私は自然に目覚めた。
息子の方を見るとまだ眠っている様子である。と‥また寝言が始まった。
「ちょっと早いかな。ママ起こしたら怒るかな。そうだ一人で起きよう」
そう一通り語ると布団から跳ね上がってプレゼントを抱えて寝室を出て行った。
なんとちゃんと気がついていたのだ。そー思い返せば旅行に出掛ける時などその時ばかりは
かなりの早朝でも棒を立てるようにシャキッと起きるご都合主義の息子でもあったのだ。
後から聞くと深夜にプレゼントに気付いてその時から寝付けず、眠れぬ夜を過ごしていたそうだ。
真夜中のあの行動もいつもの寝ぼけではなく、高まる胸と闇夜の狭間でのあがきであったのだ。
しかし‥サンタの姿は確認することはできなかったそうだ。

ラーメン小談義

 例年このコラムで紹介しているが、正月二日の皇居一般参賀に行くのがお正月らしい雰囲気を
求めての我が家の年中行事となっている。今年は昨年春の東日本大震災を受けて
天皇陛下の挨拶も例年になく長く、哀悼と労りを込めたお言葉が多いのが印象的であった。
天皇陛下の体調に配慮して今年のお出ましは5回と以前より回数は減っているものの
来場者は例年並みの8万人弱あるそうだ。ゆえに回数が減った分、新宮殿前は年々益々人で溢れて、
運が良いか根性で場所取りをしない限り皇族方のお姿は芥子粒大での拝顔となる。
そして今年も背の低いご婦人方ともども「よく見えなかった」という嘆きで締めくって皇居を
下った。その後のルートも毎年判を押したように変わりなく、銀座をぶらぶらウインドー
ショッピングした後で秋葉原のヨドバシで息子におもちゃを買ってやるのが恒例となっている。
 ところで秋葉原では必ずと言っていいほど訪れるラーメン屋があるので今回紹介したい。
産学協同研究の場として建設された秋葉原クロスフィールドのUDXビル2階にある『康龍』という
お店である。ここの人気メニュー「自分仕立てラーメン」は麺の細麺or太麺の指定から始まり、
麺のゆで加減、つゆの濃淡と甘辛具合、のせる具の選定に至るまで細々と正に自分流に
とんこつラーメンを多彩にアレンジできるのだ。ちなみに私の場合は細麺をとてもやわらかめに
茹でてもらい、濃い味わいながらもあっさりめのとんこつスープに辛み味噌だれを多めにのせて、
博多ネギに焼き豚、加えて豚の角煮に特製メンマ、半熟たまご、そして止めに揚げにんにくの
スライスをのせるとった仕上がりである。正月早々この内容では今年もどうも痩せられそうにない。
ちなみにこの様なアレンジサービスは近場のイオンレイクタウン森1階、ガーデンウォークにある
博多ラーメン「一蘭」にもある(但し選択の幅は康龍よりは少ない)。こちらも本場・博多の
とんこつラーメンを代表する有名店であり、初めて福岡で食べたときは特にその特異な接客様式に
びっくりさせられたものであった。ラーメンの味に集中してもらうためとはいえ
基本的に一人一人仕切りのあるカウンターに押し込められる飲食形態なのだ(但し申し出れば
仕切りは引っ込めてくれる。しかしテーブル席はない)。またついでに最近春日部に出来た
「火山ラーメン」も面白い店である。熱く熱した石焼き鍋に最初に麺と具のみが入って運ばれ、
その後店員がスープを投下。するとお客の目の前で正に火山のように白い水蒸気が上がって
ぐつぐつと煮立ち始め、2分程煮込んでからあつあつを食べる趣向である。
息子はそのパフォーマンスに大喜び。猫舌だと自称していたが熱さを忘れてガツガツと箸が進み、
早々に1人前を平らげて重ねてびっくりさせられたお店だった。


■ 執筆後記 ■

 ここ10年以上、正月2日の皇居一般参賀には
我が家の年中行事として通っているが、
天皇陛下の新年のお言葉は例年3節と決まっている。
「新年を共に祝う喜び」と
「新年がみんなに良い年である祈り」と
「我が国と世界の平安と繁栄」である。
毎年判を押したようにおおむねこの3節であるが、
さすがに2012年の正月、
東日本大震災後初めてとなる正月は
大震災による大被害におけるご心痛と
被災者への労りのお気持ちを中心に
異例の丁寧なお言葉で語られていた。

東日本大震災以降、私は息子を連れて
2012年は宮城県女川町、
2013年は岩手三陸地方、
そして2014年は宮城県南三陸町と訪ねてきた。
大震災から3年半経ち、徐々に進むガレキの撤去と
その後の大津波に備えた土地の整備の様子を見てきたが、
今でも大津波に洗われた土地のほとんどが
相変わらずののっぺら状態で、
失われし我が郷土の現状を3年半も毎日見せられてきた
地元の方々の心中を察すると
毎度胸が熱くなる思いである。

今回2014年7月、南三陸町を訪れて驚いたのは、
町の至る所に作られた大津波に備えた盛り土であった。
高さ15メートルほど、上底の幅100メートル超ある
パソコンのキーボードのボタンのような台地が
町のそこかしこに出現し、
現在人が考え得る、持ち得る力をもって
津波に強い新しい町作りが進んでいた。
まるで小さな城郭が乱立するような様で
この郷土を守らんとする人々の決意の結晶にも見えた。

南三陸町と言えばあの防災庁舎の記憶が生々しい。
今回初めて鉄筋の骨組みのみを残す
そのむくろを目の当たりにしたが、
今でも亡くなった女性職員が
大津波に襲われる直前まで
避難を呼び掛け続けた声が聞こえてきそうで
いたたまれない気持ちで一杯になった。

南三陸町からの帰り際、
道々の沿道に警察官を始め、
地域の老若男女がたくさん繰り出していた。
なんの騒ぎかと思ったら、
天皇、皇后両陛下が南三陸町を含めた
被災地域を慰問されていたそうだ。
何回目かは存じ上げないが、
大震災後かなり精力的に訪問されていると聞いた。
私たちが昼食に立ち寄った
南三陸町の「さんさん商店街」も立ち寄られたそうだ。
タイミングが合わなくて残念無念だった。

被災地の復興においては
十分なお金=予算は付いていると思う。
だが大切なものをたくさん失った
人の心はお金で癒やせるものではない。
人の心を癒やせるのは、やはり人の心。
それを多忙な身ながらも、
また老体にむち打って実践されている
天皇、皇后両陛下には頭が下がるばかりだ。

私もこの地をいつも心に止めて、
ただの一介の旅人なれど、
何か役立つ仕事ひとつするわけでもないけれど、
この後も訪れ、見つめ、心にそして文字に記していきたいと思う。

一つ戻る

2013年7月、岩手県田野畑の机浜(つくえはま)の防波堤を写す。
防波堤の左半分が大津波によって壊されたのがわかる。

壊れた防波堤を横から写す。
引き潮でコンクリートの塊が根元から引っ繰り返されたようだ。
 
机浜の番屋群跡の今。番屋とは漁師の作業小屋で、
そのノスタルジックな景観は当地区の観光名所のひとつであったが、
大津波により一切が無くなった。
漁師の住居はこの浜の奥の高台にあるそうで、被害はなかったそうだ。