旅の空色


2013年12月号




『太宰治 研究』その2 〜嫌われ富江の一生〜

富江が嫌われる理由

 太宰治が最後に愛した女性。そして最後を共にした女性。山崎富江。享年29才。
太宰と関係した数々の女性の中で、彼女は公にもっとも嫌われる対象であった。
一番の理由は人気者の太宰治を死へと導き、最終的に独占したからであろう。
彼女憎らしさの余り、富江が太宰の首を絞めた挙げ句に無理心中したなどと言う者まであった
(検死の時に太宰の首に紐で絞めた跡があったと証言する友人が何人か出た。
しかしその場にいた別の友人はそれを完全に否定しているし、警察も認めていない。
もともと太宰は鎌倉の鶴岡八幡宮の裏手で首つり未遂をしたことがあり、その時の綱跡が
あったと愛人の太田静子が語っているので、その傷を敢えて持ち出したのかもしれない)。
そもそも端から見れば富江はふてぶてしい女であった。太宰の家族の目と鼻の先に間借りして
太宰の秘書兼雑用係として振る舞っていたが、愛人であることは奥方以外には周知の事実で
あった。奥方は健気にも富江の肩書きを信じていたのだが、やがて特別な関係であることを
太宰がしゃあしゃあと認めた後も、富江は今まで通り全く変わりなく太宰に尽くした。
ある時などは奥方の留守で困っている太宰に頼まれて家に上がり込み、子供のオムツまで
替えている(この時富江は太宰の幼い息子を抱かせてくださいと頼んだが、さすがの
太宰も「この子は孤独を愛する子だから」と断っている。また長女は幼いながらもすでに
分別も身に付けていて、母の愚痴から覚えたのだろう、富江を「例の女性」と言っている)。
この頃の太宰は書けば売れる人気作家であったので、出版社がひっきりなしに執筆を頼みに
訪れていて、その対応だけでも大忙しであった。富江は秘書として病気勝ちの太宰の調子が
悪い時は、断れない性分の太宰に代わって門前で追い返していたので、一部の編集者からは
とても評判が悪かった。影では「女房気取りの勝ち気な女」と罵られ、
太宰の前ではおべっかをとって「奥さん!」などと呼ばれていた山崎富江であった。
もし私も当時の関係者の一人であったなら、太宰の良妻・美知子を哀れんで、
富江を常識のない不道徳な女として憎んだであろう。
 太宰研究者からも山崎富江の評価はとても低い。それはあまりにも文学とは無縁の女性
だからである。文学界で一大家となった太宰とはどう見ても釣り合わない、似合わないのだ。
対して例えば奥さんの津島美知子は太宰没後30年を記念して「回想の太宰治」を記し、
それが高く評価されて一介の小説家として名を残している。また太宰の小説『斜陽』の
肥やしとなった愛人・太田静子も、もともとは歌人や小説家を目指した文学愛好家であり、
のちのち彼女の影の功績が認められるようになったと言える。
対して山崎富江はというと‥、太宰の勧めに従って太宰との出会いからちみちみと
日記を付けていて、後に太宰研究者の長篠康一郎の手によって「太宰治との愛と死のノート」
という本となっているが、太宰研究の資料としては興味深い内容はあるものの
およそ文学とはほど遠い内容で、おそらくは現代人の目にはストーカー日記とも言える
内容も含む、週刊誌ネタの多い、取り留めもないあくまでもただの個人日記である。
太宰に献身一途の看護婦さん的愛人、彼女を見下した評価が主流だ。

超一流の職業婦人

 そんな日陰者の山崎富江に光を当てたのが2009年に出版された松本侑子さん著作
『恋の蛍 山崎富江と太宰治』(光文社)である。私は太宰関係の書物をいろいろと
物色してきたが、この本が作品としてもっとも上手く書き上げられたものだと感心している。
その理由は筆者の労を惜しまない裏付け調査である。太宰に関する膨大な研究書と資料に
目を通すことはもちろん、山崎富江についての聞き取りに東奔西走し、果てはフィリピンまで
飛ぶといった精力的なものである。そのようにして山崎富江というひとりの女性の
生まれてから心中するまでを可能な限りの事実を元に炙り出した力作である。
 本の表紙には最もよく知られている日本髪を結った古風な姿の富江がある。
しかし表紙をめくると今度は細い縁の洒落た眼鏡に白いブラウス、ウエイブがかった
スカートと爽やかにシンプルながらセンスのいい、都会的な女性の富江に驚かされる。
すらっとしたスタイルに理知的で親しみやすそうなその姿に太宰同様に私も魅力を感じた。
それもそのはずで彼女は東京生まれの江戸っ子であり、さらに最盛期は銀座に美容院を開く
一流のプロ美容師であったのだ。この時代の美容師と言えば、女優・吉行和子の母、
吉行あぐりがNHKのドラマになり有名だが、美容師としては山崎富江が超一流で、
もし生きていたら平成天皇妃・美知子妃殿下の婚礼の際の髪結いおよび着付けを
手がけていただろうと言われる腕前であったのだった。

 そんな超一流の美容師に山崎富江を育て上げたのは富江の父、山崎晴弘であった。
商才で財を成した彼はその資本を元に政府公認第一号の美容師学校を文京区後楽園側に
開校する。時代の成功者であった父・晴弘であったが、子供運には恵まれなかった。
長男と長女が幼くして、優秀な次男が成人間近に他界。あと一人息子がいるが、
美容学校経営には全くの無関心で、結局残された富江に後継者としての期待が掛かってきた。
お嬢様育ちでのんびり屋、そしておっちょこちょいの富江を、父・晴弘が他の教え子同様に
厳しく指導した。時には目隠して整髪させたり、片腕のみでやらせたりと他に例のない教育法
だったという。それは万が一にも失明したり、片腕を失った時も美容師として身を立てて
行けるようにとの晴弘の教育哲学であり、女性がひとりでも生きてゆける教育も兼ねていた
ものだった。戦前の未だ家長制度の根強い世にあって、晴弘の類い希なる人格者を
物語っていよう。晴弘は1万人近い美容師を指導したそうで、中でも凄腕の3人のひとりに
娘・富江を見事育て上げた。富江もなかなかの勉強家で、日本の国際化を見据えて
英語やフランス語、ロシア語を学ぶなど、後継者として精進することに余念がなかった。
やがて富江は校友と銀座に美容室を開業。腕試しはもちろん、経営の実務と経験も
積み重ねて行った。頼もしい後継者・富江に順風満帆の山崎家であった。
しかしここで富江を始めすべての人の運命を変える時代に突入することとなる。
日米開戦、太平洋戦争の勃発であった。
 運命の歯車とは調子よく回っていた分、戻りも勢いがあるものなのだろうか?
山崎家はまるで坂を転げ落ちるように、あっという間にすべてを失うこととなる。

残ったものひとつ

 戦争勃発と同時に山崎家からは次々と大切なものが奪われていった。
最初は父・晴弘の美容学校であった。校舎は関東大震災の時に一度火事で焼失した
ことがあり、そこは先見の明のある晴弘らしく新しく建てた校舎は大枚をはたいて
地下室も備えた最新の鉄筋コンクリート造りにしていたのだが、ところが今度は皮肉にも
その丈夫さが仇となって、やがて軍に接収されて学校は廃校となってしまう。
そして富江の銀座の店も東京大空襲で焼け、一家はほとんどの私財を失って、
晴弘の出身地である滋賀県東近江市(旧八日市町)に身内を頼って疎開する顛末となった。
そんな不幸な戦時中でも良いこともあった。富江の結婚である。相手は財閥系一流企業・
三井物産のエリート社員で、お見合い経て双方気も合った末の結婚だった。なかなかの
好青年でもあり、事業家としても期待できて、富江の両親も大喜びであったという。
しかしこの時代、個人の幸せはつかの間でもあればよい方だったのだろう。
10日余りの新婚生活の後、新郎は三井物産マニラ支店に赴任することとなるが、
時節悪く着任1ヶ月後にはアメリカ軍との戦闘に巻き込まれて新郎は帰らぬ人となった。
軍民関わらず戦争で多くの人が死んだ時代。前線で男たちがなぎ倒され、銃後に多くの
未亡人が残された時代。富江も26才にして夫婦の思い出もほとんどないままで
未亡人のひとりとなったのだった。終戦後、富江は老いが目立ち始めた両親を疎開先の
滋賀に残したまま、鎌倉で雇われ美容師としてしばらく働いた。そしてやがて運命の地、
人生の終着地である東京都三鷹市へ引っ越してくる。

 男と女の縁を結ぶ運命の赤い糸なんて本当にあるのだろうか?定められた最愛の相手と
生まれた時から小指と小指が結ばれていて、いつか出会う時が来るなんてあるのだろうか?
山崎富江にとって幸せの赤い糸の相手はやはり亡くなった前夫だったと思う。
では太宰治は何だったのだろうか?太宰の元にやってくる若い女性は「斜陽」の愛人・
太田静子もそうだが、太宰の作品に触れてファンになった文学少女が常であった。
ところが山崎富江は文学とは縁遠い女性であり、太宰の作品も読んだことはなかったそうだ。
そんな縁もゆかりもないふたりを結びつけたのは、富江が最も慕った次兄であった。
先に紹介したように次兄は成人前に他界しているが、成績優秀だった次兄は縁あって
太宰と同じ青森県の弘前高校に通っていて、しかも学年も近かった(実際には1年違い)。
生前の次兄の面影に触れたくてたまたま知り合ったのが次兄と同じ年頃で同じ高校卒の
太宰治であった。
 「そう言えば当時弘前駅で洒落たコートを着て垢抜けた女の子を見かけた記憶がある」。
小さい頃一度次兄を訪ねて弘前を訪れたことがあると言う富江に、いかがわしい飲み屋で
磨かれた太宰は半分冗談交じりにそんな風に返したという。
太宰は言葉がうまい。巧みだ。その最高峰が太宰の作品『御伽草子』の「カチカチ山」だと
私は思う。童話をそのまま元にしたこの小説は、狸に模して男の本質を剥き出しにする
ような、男性には赤面する話だ。私はこの作品は男の誠実度判定機だとも見えている
(→誠実度が低い人ほどよく吹き笑いする)。

 「戦闘開始!」。妻子ある太宰治と付き合うことを決心した山崎富江は自らの日記に
このように記して決意を固めている。実はこの台詞、太宰の小説『斜陽』の中で主人公の
女性がやはり妻子ある作家と結ばれることを決意した台詞と全く同じである。
小説『斜陽』はもともと太宰の愛人のひとり、太田静子の日記『斜陽日記』が元になって
いるのだが、そこにさらに山崎富江の気持ちまで入れてくるとは、太宰治は面白い小説を
書くためには手段を選ばないと言った一面を持っていると言えよう。
山崎富江は最初に出会った時から太宰治に夢中になってしまった。質素倹約を旨とする富江は
2年は遊んで暮らせるという大金を持っていたが、太宰を男として立てるために
惜しげもなくそのお金を貢いでしまう。当時、太宰の好きなお酒は貴重品で手に入りにくく、
闇市でビール1本が今で言う1万円程もしたそうで、気っ風のよい富江は酒に加えて、
やはり貴重な果物や新鮮なご馳走を太宰の欲するまま用立てたのだった。
そんな生活は続くはずもなくお金も2ヶ月ほどで尽きた。前夫との籍もそのままに
不義な恋愛を始めて、仲の良かった両親とも距離を置くようになった。加えて太宰の
持病である結核は進んで、いつ喉が血塊で塞がれ、突然逝ってしまうかもわからなかった。
「先生(太宰)にもしものことがあったら君はどうするの?」と問う編集者に対して
富江は「もう私には太宰さんしか残ってないもの」と答えている。

親の心子知らず

 太宰治の葬儀の晩は雨だった。太宰の作品を人柄を愛した多くの弔問客の中に
山崎富江の父、晴弘の姿もあった。当然敷居を跨ぐことは許されなかった。
晴弘は自らの想いを遂げるため、門前で土下座をして額を地にあてて懇願したという。
「無理は承知です。どうかどうか娘の形見を太宰さんのお墓に一緒に入れてあげてください。
娘が愛し尽くした人だから」と。太宰ですらお骨になるまで帰宅を許されなかったのだから、
見知らぬ老人の切なる願いは叶うはずもなかった。子を愛しく想う親心の深さ、子知らず。
山崎富江の人生は、老いた父親が雨夜に濡れながら土下座をして懇願するという
このシーンを作るためにあったとも言えるかもしれない。弔問客から見れば親まで
非常識かと思うだろう。または親にここまでさせてとんだ親不孝者の娘と改めて思うだろう。
しかし富江の人生を俯瞰してきた読者諸君は、晴弘が娘の過ちをすべて受け止めた上で、
なおかつ娘の気持ちを大切にする親の姿は、太宰が小説に描いた仲よく戯れる親子の
まぶしい姿と同様に、悲しくも美しい黄金風景とも見えるのではないだろうか。
 富江はその日記に浮気性の太宰を母性のような、兄弟愛のような大きなもので愛すると
記した。その寛大な愛以上に、父・晴弘の愛は偉大なものであったと、富江は草葉の陰から
見つめたに違いない。親が子に注ぐ愛。それは無償の愛だ。私も子を持つ親となって
初めて知った不可思議な想いであった。”歴史にもしもはない”が、もし富江が
父・晴弘の愛の大きさに触れる機会があったら、二人は死なずに済んだかもしれない。
そしてまたこの大きな愛は、常に近くにありながらも、滅多に見れるものでもない。
 私は人並みに息子を躾けていると思う。しかし時折息子に「ちょっと甘やかし過ぎかなあ?」
と問いかけることがある。すると息子は「いいの。いいの。子供は甘やかして育てるものだよ」
とぬけぬけと言いくさる。やっぱりちょっと甘やかし過ぎだなあ。


■ 執筆後記 ■

 通常私のエッセイはA4用紙の紙面の関係上、
片面1400字、表裏合計およそ2800字程度で
収めるようにしていますが、
今回は特に熱が入ったことと、また話の年越しを避けるために
A4版二枚の増刷にて発表しました。
山崎富江については多くの太宰研究者が見下した形で紹介する一方で、
松本侑子さんの『恋の蛍 山崎富江と太宰治』では
地道な聞き取りと調査の結果、
一人の素晴らしい女性を浮かび上がらせたと
本当に感心しています。
それとエッセイでは書きませんでしたが、
松本侑子さんの現地調査の中で、
フィリピンでの日米攻防戦における日本人戦死者が
官民合わせて40万人を越える事実を初めて知り、
とても驚かされました。
子供の頃より兵器や戦史に興味があった私は
真珠湾攻撃から始まり、ミッドウェイ、
南太平洋およびソロモン諸島、
マリアナ、レイテ、沖縄特攻と
太平洋戦争については少々知っていると自負していましたが、
それは大きな思い上がりであると突きつけられ、
改めて日の目を見ない史実に目を向けるよう
一喝された思いでした。
東京大空襲に広島、長崎の原爆を合わせた犠牲者に匹敵する人々が
フィリピンの混乱の中で亡くなられていたとは‥衝撃でした。
大戦中、日本の犠牲者は官民合わせて200万人超と言われていますが、
フィリピンがその20%を占めるということになります。
戦争の原因、経過、責任を追及することも必要でしょうが、
たまたまその時代に生まれ、巻き込まれてしまった人々を想うのも
その人たちに対する敬意だと思います。
私もいつかフィリピンを訪れて、
慰霊碑に手を合わせたいです。

子供たちの時代にそんな悲劇が起こらないよう
切に願います。
(平成17年1月2日皇居一般参賀会場にて。息子・錬2才)

一つ戻る