旅の空色


2013年 7月号




『河童探索プロジェクト』 〜研究編〜

河童は実在するのか?

 「河童はいるのか?それともいないのか?」
この馬鹿げた問いに、いい大人である私はこの3ヶ月間暇をみては取り組んできた。
馬鹿げたと前置きしたが、それは当然そう思うであろう大人の常識からの見地を
尊重したのであって、私自身は大真面目に、同時に半信半疑にこの問題に向き合ってきた。
私にとって河童の存在の可能性を強く印象付けたのは、岩手県下閉伊郡岩泉町に住む老女、
三上キクさんの証言であった。テレビ番組で見たその証言は老女の表情といい、
内容といい、とても嘘や作り話ではなく感じられたからだ。
 それは昭和13年(1938年)三上キクさんが小学4年生の時の体験であったそうだ。
学校の帰り道、同級生の三上ナヨさんと沢沿いの道を歩いていると、舟木沢の滝なる淵に
美しいミカン色の円盤が浮いているのに気が付いた。やがて円盤の下から頭が出てきて、
ぬるぬるとした上半身まで姿を現し、水の中を歩くような形で彼女たちに近づいてきた
という。その後も何度もこの河童らしきものを同じ場所、同じ時間に見かけて、
時には水をかけ合って遊んだこともあったそうだ。この体験を学校で話すと
いじめっ子だった男の子たちに是非に会わせて欲しいとせがまれて、
皆でぞろぞろとその場所に来たが、その時はその河童らしきものは姿を現さなかった。
ただその後も彼女たちふたりの前には時折現れたそうだ。果たしてこの話は彼女たちの
作り話だったのか?それとも集団幻覚だったのか?はたまた本当にそれらしきものが
実在したのか?現地をも訪れてみたくなった私であった。

通称『河童』はいない

 当時の三上キクさんと同じ年頃の小学5年生の息子・錬(れん)に「河童はいるか?」と
尋ねたところ、間髪入れずにきっぱりと「いないよ」と言われた。
全く最近の子供は夢がなくて困ったものだ。可愛げのない超現実主義は嫁そっくりである。
まあ常識をわきまえるともいえ、ただ私が息子より子供っぽいだけかもしれない。
 この河童についての考察を文献より始めることとして、ざっと河童に関する本の有無を
調べてみると意外に結構あることにまず驚かされた。当初、河童のことなど真面目に
扱うのは漫画家の水木しげるのような変人くらいなものではないかと勘ぐっていたが、
実際には民話・伝承を研究する民俗学研究者から始まり、大学の日本文化研究者まで
大真面目で本を出している。
 近代において河童の存在が大きくクローズアップされたのは、何と言っても柳田国男の
『遠野物語』の影響であろう。岩手県遠野町の民話収集家、佐々木喜善から聞いた話を
後に日本民俗学の大家と評されるようになった柳田国男が小説にまとめたもので、
遠野町を代表する妖怪?座敷童子などたちと一緒に河童も紹介されている。
ただこの河童らしきものの存在は北は青森から南は沖縄まで日本全国津々浦々とあり、
岩手県遠野町が特別なものではないそうだ。それらは地方地方の民話として伝えられて、
その容姿も津軽の猫の様な姿から、猿らしき毛に覆われたもの、亀のような甲羅を持つもの、
海から現れる蛇のようなものと多種多様とある。
 呼び名もその分いろいろとあり、それらしい河太郎やカワノモノ、
訛(なま)りの入ったようなガラッパやガワッパ、猿のイメージが強い淵猿(ふちざる)や
エンコウ、独特の呼び名のメドチやケンムンなど一様ではない。つまりはもともと
河童らしきものはそれぞれの地域で様々な形で存在していたのだ。
 そして我々がよく知る頭に皿があり、背中に甲羅を背負ったイメージの河童という
呼称の妖怪が現れたのは江戸期だそうだ。その頃は今で言う博物学たる『本草学』が盛んで、
未確認ながらも動植物の一員に分類されていたようだ。また100万人規模となった大都市・
大江戸では、交通や上下水のために網の目のように用水が整備され、水辺が身近なものに
なったりして、日本人特有のアニミズム(木々や山、川、大小の石に至るまで
すべてのものに精霊がいるという思想)を刺激し、澱んだ水の中に何か潜んでいる感覚を
刺激したり、さらには大量に印刷される浮世絵が妖怪図として出回ったりして、
今我々が知るあの河童の形がニッポン・スタンダードとして定着したらしい。
ただ先に紹介したように、河に住む子供くらいの大きさの生き物は地域によって様々あり、
我々がよく知るニッポン・スタンダードの河童像は、詰まるところ幾つかの地域の
河童らしき像を練り合わせて作った空想上のもので、実はもともと存在しないのだ。
ただ逆に地域地域に言い伝わる河童らしきものの存在は完全に否定できるものでもない。
結論として、我々がよく知る河童は存在しないが、それらしきものは伝承により
各地に生息する可能性があるということとなる。

会いたかった。君(河童)に

 河童について考察する締めくくりに、ちょっと値段が高い気はしたが、高橋貞子著作の
『河童に出会った人々』という本を取り寄せた。岩手県岩泉町で生まれ、今でもそこに住む
高橋貞子さんは、岩泉地方に伝わる伝承や民話の収集家で、それらのコレクションの中から
河童に関するものをまとめたのが本書である。しかし河童の話だけでも1冊の本となって
しまうとは、岩泉地域の情報量の多さに驚きである。そして実際に読んでみると
昔話も多いとはいえ、目撃談も多数あり、かつ内容も豊富で、河童の存在の信憑性が
高められる本書でもある。河童の他に座敷童子と山神もそれぞれ1冊の本となっている
のだから、岩泉地方は妖怪(といっていいのかわからないが)の宝庫とも言える。
 岩泉町より盛岡市へ至る新小本街道(しんおもと。国道340号線)を岩泉中心街より
20km程進むと本銅ノ沢と書かれた小さな看板が現れる。そこを左折し小さな石の橋を渡り、
数軒建つ民家を抜けるとそこから沢の終わりまで5kmほど民家はなく、沢沿いに痛んだ
舗装路が続くのみである。2kmほど沢を登ると廃屋が数軒あり、どうやらそこら辺りが
三上キクさんが住んでいたところらしい。川幅1〜2メートルの沢をあちこち見て歩いたが
やはり河童に出会うことはなかった。三上キクさんの話では河童は夕刻、陽を避けるように
現れたというので、訪れた昼間は時間が悪かったのかもしれない。廃屋が示すように
ここら辺りでは人の営みはすでに放棄され、静かに自然界の勢力が増してきているように
感じられた。実際人間が珍しいのか、小さな虫が絶えず寄ってきて、長居できるような
環境ではなかった。そう、私は寄り道してあの場所を訪れたのだった。
願わくば一度、君に会いたくて。


■ 執筆後記 ■


 これが三上キクさんが河童を見たという
「本銅ノ沢」にある小川の景色である。
小川の側まで降りたかったが、
道から3mほどの高低差があり
足元も悪く、危険なので断念した。
小川沿いに沢の奥まで5kmほど舗装道路があるが、
人の生活はなく、めったに人が入らない袋小路でもある。
もし機会があったら、今度は夕暮れ時に
訪れてみたいものだ。

 どこか本気で河童を期待していた私の失意を
慰めるために、旅の最後に
有名な遠野の河童淵に向かった。
その道すがら、現在不通となっているJR岩泉線沿いに
国道340号線を南下した。
”国道”とは言いながらも、なかなかの”酷道”で
車一台やっとという幅が幾重にもあり、
またいろは坂を思わせる難所の峠道もあって
スリリングさを求めるドライブ好きには味な道である
(但し、車の運転にそこそこ自信がある人に限る。
さすがの酷道に部分部分拡張工事中だった)。
またこの酷道の途中にある、鉄ちゃん(鉄道ファン)には
伝説の秘境駅のひとつ「押角駅(おしかど)」にも
もちろん寄ってきた。
下の写真にあるような川(刈屋川・かりやがわ)に掛かった
10メートルほどの長さの細長い橋を渡って駅に至るという
変わった構造の無人駅である。

 駅の様子も見たかったが、
写真のように立ち入り禁止の札があり、
何よりも橋が危険そうだったので立ち入りは断念した。
中の様子については熱心な鉄ちゃんが写真を公開しているので
そちらをご覧頂きたい。(→押角構内写真・外部リンク

 最後に「遠野の河童淵」で息子・錬と撮った写真を載せます。
息子を河童に見立てて『河童つかまえた〜』

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