旅の空色


2013年 5月号




『海地獄』

 そこはもうもうとした白い煙の塊が上がっているところであった。
真っ新な白の煙が絶え間なく空に上がっていて、ただそれだけのように思えた。
やがてさっとやさしい風が吹き抜けた。白の煙たちはほおきで掃かれるように
みな風に流されて一瞬ぱっと視界が晴れる。すると目の前に真っ青な池が現れた。
青といっても澄んだ紺碧色、遠い南国の海そのもののような青、英語ではコバルトブルー
などというのか、汚れない純真な明るい青である。ただこの青い池。
その美しさとは裏腹に恐ろしい場所にある。そこは生前罪多き人間がその贖罪に
幾多の試練を試されるあの「地獄」である。

 Nは死んだ。意識が遠くなり、深い闇の中に落ち続ける感覚も次第に薄れる中、
次に目覚めた時…やっぱり地獄の入り口にいた。恐ろしい鬼に追われて三途の川に落ち、
三日三晩川で溺れ、やっと対岸に着いたら大柄な地獄の婆さんに衣類全部を剥ぎ取られて、
その衣類の重さで罪の重さを量られた。そして閻魔大王の前に引っ張り出され
大審判を経て、その場で奈落に蹴落とされた。
 ご存じの通り地獄には自らの罪をあがなうために様々なアトラクションが用意されている。
針だらけの山で身を裂かれながら幾峰も超えて行く「針山地獄」。生臭い血で満たされた
大池で溺れ死にを繰り返す「血の池地獄」。鬼どもに舌を抜かれ、炎の塊を呑まされ、
炭を食わされる「抜舌・呑火食炭地獄」。のこぎりで全身をこまごま切られる「鋸解地獄」。
毒蛇の巣に投げ込まれる「毒蛇地獄」。罪人たちに極限の恐怖と苦痛を与える
地獄のアトラクションの類には枚挙の暇はない。さらに鬼達は新しいアトラクションの
開発にも熱心で、かの人気遊園地、ディズニーリゾートを凌ぐ勢いで拡張中である。
そして最近デビューしたのが先に紹介した「海地獄」であった。
 奈落に落とされたNはその底で随分と長い間動かなかったが、やがて意識を戻して、
いや正確には生き返り、あっちこっち骨の折れた手足を引きずりながら、やっとの想いで
着いたのが白いけむり塊の立ち上るそこであった。さっとそよ風が吹くと、煙はたちまち
霧散して、美しい青い水で満たされた小池が現れた。その美しさにNは天国への入り口かと
一瞬喜んだが、その池の真ん中のあるものに気付き、ぎくりとしてたじろいだ。
池のど真ん中に赤鬼がいた。ただの一匹、青い池から真っ赤な顔だけを出していた。
目を閉じて寝ているようであった。いやもしかしたら死んでいるのかもとNが目をこらして
その赤鬼の顔をよくよく眺めていると、鬼はカッと目を見開いて、そして笑顔になった。
「Nちゃん。よく来たなあ。久しぶりだなあ。」
その赤鬼がうれしそうに声を掛けてきた。知り合いに鬼などいないとNは思ったが、
すぐにあっと思い出した。友人Tであった。沸騰するやかんのように湯気を上げ、
火のように真っ赤に顔が、みごとに赤く染まっているが紛れもなく友人Tであった。
「Nちゃんもやっぱり地獄に来たかあ。途中大変だったろう。でも会えてうれしいよ」
男気のあるたくましい顔立ちに、茶目っ気のある子供っぽい笑顔を浮かべたその様は
よく一緒に遊んだ往時の姿そのままだった。

「地獄に落ちることは、俺は覚悟していたが、やっぱりNちゃんもそうだったかあ」
赤鬼のようなTはしみじみと往時の楽しいちょいワル悪事の数々を懐かしく語り始めた。
Nも思い出に楽しくなった。心が温かくなってきた。数々の骨折の痛みも少し和らいだ。
持つべき者は友。地獄に仏ならぬ友人。Nは少し救われた思いになった。
「ところでTさんはここで何してるんだい?ここもまだ地獄の途中だよなあ」
NはTに尋ねた。Tはきっと真面目な顔になり「地獄にも途中途中休憩所があってね。
こうして熱い湯に浸かって体を休めているところさあ」と言い、また子供のような笑顔で
「Nちゃんもこれからまだまだ先が長いから。休むべく時は体を休めた方がいいよ」と
一緒の入浴を勧めた。Nは誘われるまま、その青い池に近づき、湯の熱さを確かめようと
ちょいと足の先を入れた瞬間。青の池から手が現れてNを足から池に引きずり込んだ。
Nは熱湯の中で溺れ、もがいた挙げ句にやっと顔を出して、今度はその湯の熱さに襲われた。
「あちちちちち」と叫んだNの目の前の池の縁に、全身どす黒いような赤い体をした
Tが仁王立ちに立っていた。やがてNは海流に流された浮き輪のようにつつつっと
池の奥に流され、Tが居たその中心に落ち着いた。場所は落ち着いたがN当人は
それどころで無かった。ただでさえ熱い湯は苦手だったのだ。
池の岸辺でNの様子の一部始終を見定めていたTは、そっと片手を挙げて、顔の前で
手の平を立て拝むようにして言った。「悪い。悪い。この海地獄は誰か代わりが入らないと
出られない仕掛けなんだ。俺も随分と待っていたんだ。どうも知人ばかりが来るようだから
きっとそのうちまた悪友のひとりでも通りかかるさ。まあ熱さも直に馴れるって。
これでもこの地獄はやさしい方だぜ。俺は今までどんなひどい目に遭ってきたことか。」
Tは涙目になった。「じゃあ、Nちゃん。俺もまだまだ先は長いんで。また現世で
みんなと遊びたいなあ」がっしりした体つきに似合わずに、心なし背を丸めて
Tはとぼとぼと去っていった。Nはあまりの熱さのため、Tに文句も別れも言えず、
もう気絶寸前であった。

 最近、友人Nから相談を受けた。地元の消防団の旅行で大分県を訪れるそうで
観光するのはどこがいいかと尋ねてきたのだ。旅好きの私はしばしばこのような
相談を受けることがある。実際、大分にも5年ほど前に訪れたことがあった。
友人Nの旅行は少人数で、宿泊は別府温泉とのことで、それならと別府の温泉地獄巡りを
勧めた。日本最大の温泉地・別府では、出で湯の数もさることながら、あちらこちらに
特徴的な自然の噴出湯があり、特に個性的な八つの場所が地獄の光景として
「別府地獄巡り」と称し観光名所となっているのである。しかし友人Nは八つも地獄を
巡るまで時間がないとのことで、とりわけ美しく不思議で迫力ある鉄輪温泉近くの「海地獄」
を紹介したのだった。そしてその「海地獄」を訪れるにあたり、私が「海地獄」にかけて
勝手に創作した地獄物語が上記で紹介した作り話である。NやTの名前を身近で
適当な人に合わせて想像すれば、別府の「海地獄」もさらに楽しく見れるというものだ。
いやもしかしたら地獄には似たようなものがあるかもしれない。その時はこの話を
教訓に注意しなければなるまい。いくら温泉好きの私でも
98度の蒸発寸前のお湯には耐えられるものではない。


■ 執筆後記 ■


実際の大分県別府市の『国指定名勝 海地獄』の水面。2010年3月 筆者撮影。
青く美しい水面だが、水温は98度の蒸発寸前の熱さである。
大抵はもうもうと白煙が上がり、水面は見えないが、
時折風で煙が飛ばされるとこのように青い水面が覗く。

 大分の別府温泉は2度訪れたことがある。
しかし別府市街についてはあまり詳しくない。
というのは全くの自分の趣味の旅行ならば、
自らの足で市街をうろうろして、
その街の風情を味わうところであるが、
2度の訪問共に友人たちとの旅行の行程であって、
ただ宿泊するために寄ったという通過点に過ぎず、
夜にちょっと呑みに出たくらいで、
街を楽しむ時間はなかったのである。
まあそれでも「竹瓦温泉」の湯は楽しんできた。
自称、旅好きとしてはちょっと消化不良気味ではあるが、
2度も行けば十分、と思っていた。

 ところがその後、作家・太宰治について考察する過程で、
太宰の親友、織田作之助に行き当たり、
織田の作風に触れるために「夫婦善哉」を読んで、
別府温泉に一方ならぬ親近感が湧いてきた私であった。
まあまた例の物好きにちょっと火が点いたのだ。
最近、嫁には「老後は日本一温泉に恵まれた別府もいいかな」
などと吹いている。
ぜひもう一度個人的に訪れて、今度はゆっくり街中を散策し、
織田の作中に出て来た旧目抜き通りの「流川通り」や
別府を見下ろす杉の井ホテルの絶景露天風呂、
明礬(みょうばん)温泉の泥湯、
繁華街の地元居酒屋で地酒と地場料理を堪能し
温泉に浸かる如く
どっぷりと別府を満喫したいものだ。

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