旅の空色
2013年 9月号
始まりはサスペンス
その女は三重県鳥羽市にある鳥羽水族館を観光した後に、最寄りの鳥羽駅から
近鉄名古屋線の特急列車に乗り、名古屋駅で新幹線に乗り換えて東京へ帰ったと語った。
ひとつ前の特急電車に乗った同僚が鳥羽水族館に向かうその女を見送っているので、
そのアリバイより早く名古屋駅に着ける特急電車に乗ることは不可能だった。
結果、名古屋駅からアリバイ以上の早い新幹線に乗る術もなく、東京で起こった殺人事件の
発生時刻には間に合わず、最も怪しい容疑者ながらも犯行時刻のアリバイは成立していた。
この事件と関わり合うこととなった弁護士の高林鮎子は助手の竹森慎平とともに
その女の足取りを確かめるべく三重県の伊勢・志摩へ向かった。
そこで舞台のひとつとなったのが近鉄グループの旅館「賢島 宝生苑(ほうじょうえん)」
であった。そのエントランス・ロビーの映像を見た時に、私はすぐに魅了されてしまった。
3階ぶち抜き、ロビー奥に配されたアトリウム(吹き抜け)には大岩や滝、茶席が設けられ
室内とは思えない大きな和風庭園が造られていた。私がいつか志摩・賢島を訪れたいと
思った始まりであった。しかしその賢島まではここ越谷からかなりの距離があった。
車ではおよそ520km。東名高速道を順調に走っても名古屋で渋滞に捕まれば
丸1日掛かりになる可能性が高かった。時間に正確な電車で行けば、半日で確実に
着けるだろうが、運賃が結構な金額になる上に現地での足にも不自由する。
レンタカーを借りればさらにお金は掛かるし、意外に現地での移動範囲は小さくて
もったいない気が先に立った。
この賢島への移動手段に一案を授けてくれたのも弁護士・高林鮎子だった。
先の重要容疑者の女のアリバイ。高林鮎子が鳥羽水族館を出た時にあるものを見て
崩れたのだった。それは鳥羽と対岸の愛知県渥美半島の先端、伊良湖を結ぶ
伊勢湾フェリーであった。その女は同僚と駅で別れた後にすぐこのフェリーに乗船して
対岸の伊良湖に移動。停めてあったレンタカーに乗って豊橋駅で新幹線に乗り、
犯行時間までに東京に着いていたのだった。志摩の美しい砂浜でその女に対峙した
高林鮎子の口から決め台詞が出た。「アリバイは崩れました」と。
2005年9月まで毎週火曜日夜9時より放映されていた火曜サスペンス劇場。
その人気シリーズのひとつ、弁護士・高林鮎子の第34話『志摩の旅。みえ6号毒殺連鎖』
のストーリー・トリックである。この高林鮎子シリーズは私のお気に入りのひとつで、
毎度、高林鮎子役の眞野あずさの魅力もさることながら、相棒の竹森慎平役の橋爪功との
おしどり振りも楽しく、またこのシリーズは必ず私の大好きな旅行が絡んでいて
(話の上では事件解決のための出張であろうが)、そして最後は交通機関の時刻表に強い
相棒の竹森がそのトリックの裏付けをするのが常である。上記で紹介した第34話は
高林鮎子シリーズの最終話となった話で、犯人役に名女優・池上季実子とラストに相応しい
これまた美しい華が添えられた話であった。
私の旅の始まり‥、それはこんなところからも出てくるという、読者諸君においては
半ば呆れるようなきっかけであろう。しかしこんなひょんなところからも
ひょうたんから駒ということもあるものだ。
ああ、賢島
想像していた通り‥、いや想像以上に旅館「賢島 宝生苑」は素晴らしい宿であった。
近鉄志摩線の賢島駅すぐ近くにある好立地の当旅館は、大浴場、庭園浴場、
ボーリング場などの娯楽施設、屋外プール、海沿いの庭園とお客を飽きさせない
いくつもの施設を有する近鉄グループが誇る大型旅館である。それら充実した施設も
さることながら、その最大の魅力は何と言っても窓からの絶景であろう。
賢島の海縁に建つこの旅館は入り組んだ岬や小さな島々からなる英虞湾(あごわん)と
言われる内海を一望し、すべての窓が絶景で飾られたような宿であった。
とりわけ南南東に顔を向ける本館の角部屋は、朝は湾の日の出が、夕は湾の日の入りが
両方見れるという贅沢な趣向である。さらに幸運にも泊まった日が満月で、
月明かりに映し出された英虞湾の夜の美しさ、黒い島影と白い光を乱反射する内海の
コントラストは、闇と光の饗宴、月光の魔法、夜の女王の宮殿を静かに映していた。
「賢島。ああ賢島。賢島」。俳人、松尾芭蕉が月夜の宮城・松島をああ松島やと歌ったと
聞いたが、所違えど全く同じ感動をここ賢島で体感することができた。
後日、私が息子・錬に今回の旅行で何が一番よかったか尋ねたところ、
いつもならプールだレジャーランドだと答える息子が、柄になく「部屋からの景色」と
答えたので、息子にもかなりインパクトのある体験であったようだ。
私も今まで様々な旅館に泊まってきたが、こんなに素晴らしい景色に囲まれた宿に
泊まったのは初めての経験であった。
蛇足であるが、最初に部屋に入った時、あまりの絶景に圧倒された私は、並んで
景色を見ている息子に次の様に尋ねた。「私たちはこれからこの素晴らしい景色の部屋で
過ごし、大きなお風呂に入り、たくさんのおいしいご馳走を食べ、ふかふかの布団で寝る。
この旅館が私たちにいろいろなおもてなしを、サービスをしてくれる訳だが、
お客がひとつだけ旅館にしてあげなければならないことがある。それが分かるか?」と。
案の定、息子は答えられなかった。今はただついてくるだけ、上げ膳据え膳、両親掛かりで
200%何の心配なく楽しめる王子様である。「それはお代を払うことだ!」と私は告げて
「たまにはお前が払えよ」と言うと、息子は両手を広げてすっとぼけ顔である。
「この素晴らしい景色もその料金に入っていることも忘れるな」と私は加えた。
「ここに高い建物を建てたからこそ見れる景色だ。そして同時にこの景色にある
海や岬や島々の美しさはお金では買えないことも忘れるな」息子は少し考え顔になったが、
本当に思考を巡らしているのか怪しい限りでもある。なんか説教臭いことを言ってしまったが、
ただぼーっと見ているだけでは、何かちゃんと得るものがなければ、
それこそもったいない景色であったのだ。
越谷より愛知県渥美半島伊良湖港まで360km。休みなしの運転でおよそ5時間。
伊良湖より対岸の三重県鳥羽までフェリーで1時間。そこまで行けば賢島は目と鼻の先にある。
だいぶ距離はあるが、あの絶景が忘れられず、また訪れたいと話している我が家である。
■ 執筆後記 ■
(2013年 8月 旅館の部屋のリビングから英虞湾を望む眺め)
『伊勢近鉄リゾート 賢島 宝生苑(ほうじょうえん)』の高層棟「華陽」、
その最上階、10階特別フロアーには七部屋の特別室がある。
私は旅館のホームページでその各部屋の間取りを吟味し、
部屋の2面に窓がある角部屋の105号室が良いと定めた。
早速早々と3月中に電話でお盆明け2連泊の予約を頼むと
うち1泊はすでに予約が入っているという。
出鼻を挫かれ、ちょっとへこんでしまったが、
どうにもならないことなので、第二希望と考えていた
101号室に予約を入れた。
旅行当日、エレベーターを10階まで上り、
101号室は下りて左奥だなあと
予約した時の残念な気持ちを思い出していると、
仲居さんは迷わずに降り口すぐの105号室の扉に手を掛けた。
「あれ!?101号じゃなかったっけ?」との私の問い掛けに
「こちらで二連泊で伺っております」との答え。
サプライズであった。
心がいっぺんに晴れ渡った。
101号室も決して悪い間取りではないが、
やっぱり角部屋の105号室に心残りがあったのだ。
私たちの予約よりも先の予約にキャンセルがあった時、
旅館の人が覚えていて、気を遣ってくれたのだろう。
またタイミング的にも幸運だったのだろう。
チェックイン時における二度目の素敵な体験であった。
(一度目は飛騨高山・本陣平野屋 花兆庵にて)
105号室はやはり素晴らしい部屋であった。
とりわけ感激したのが写真のリビングからの眺めである。
私は仲居さんに心から賛辞を告げた。
「想像していた以上の部屋です」。
「当旅館で一番人気の部屋です」と返ってきた。
私たち家族は三日間、
絵のように美しく、また時間と共に変わりゆく
窓の景色を眺めながら、夕食を食べ、
朝食を頂き、常に側にあって感じ、
気が付けばまた外を眺めていた。
「幸福な食卓」、「幸福な景色」、「幸福な時間」、
そんな題名が思い浮かぶ、幸福な日々を送れた。
(部屋の間取りについては『これまで泊まった宿』で
詳しく紹介しています)
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