旅の空色


2013年 2月号




『その男‥』

 その男は大酒呑みである。
当初家人には一日三合が適量などとのたまっわていたが、家人同士気が緩み始めると
倍の六合、お銚子で6本程度の晩酌は日常となる。その他にも来客があるとお茶代わりに
ビールだ日本酒だと呑み始める。ひと月の酒屋への支払いは7〜8万円もある。
ただ呑み方は綺麗だ。生来お酒に強い体質らしくそこが唯一の救いか。
いい加減に酔いが回るとくしゃみをし出してそろそろ床につくタイミングが分かるという
愛嬌もある。外で飲み歩くのも好きで、あっちこっちと飲み歩いてはそっちこっちに
ツケをしているようだ。やがて仕事が軌道に乗ると出たっきり何日も帰らないことが
目立つようになっていった。
 その男は浮気者である。
普段は物静かで色気など興味がなさそうに見えるが、人は見かけによらぬ者、
仕事の特性も手伝ってか「俺と命がけで恋してみるか?」などと気障など言って
口説いたこともあるとか。どうらや家を空ける時はそっちに転がり込んでいるらしい。
そもそも女遊びは筋金入りだったとか。親がお金持ちであることをいいことに
すでに高校生の時より酌女の付く飲み屋に出入りしていて、粋な風体を好み、
学校の先生方の反感を買っていたとも聞く。実家でもやがて「色狂い」と悪評を高めていた
そうだ。良妻賢母の誉れ高いその男の奥方がさすがに見るに見かねて悪行を正すように
諭すと、その男は悪びれることもなく「俺は命がけで遊んでいるんだ」と答えたとか。
 ここで一言お断りしておくが、これは筆者、私の懺悔の場では決してない。
酒呑みなどいくつか共通する部分はあるが、私のことではないと誤解なきよう断言しておく。
 奥方も常識外の人と半ば呆れながら評するその男の悪行はまだまだある。
ボンボンのため金銭感覚がない。稼ぎはすべて自分の小遣いのように思って遊びに
当てている。しかしボンボンの割にはケチ性なところもある。結納金の半返しに喜び、
生活には便が悪くても家賃が安い借家を好む。当然奥方に何か買ってあげたことはない。
頭に来た奥方が一度無理矢理高価な着物を買わせたことがあるそうだが、後にも先にも
それ切りである。子供の面倒は見ない。不幸があって奥方が家を空けた時など、
なんとその男は愛人を我が家に招き入れて、子供のおしめを替えさせたりしている。
いくらなんでもやり過ぎと同類からも非難囂々である。
またある時は真っ昼間に酒を呑んで、いい気持ちで飲み屋のママと並んで歩いている
ところを買い物の列に並ぶ奥方と子供達に見つかっている。父に気付いた幼い娘は
走って来そうな姿勢となるが、賢母は娘の目を覆い隠したという悲話もある。
 その男と比べればあなたの連れ合いや義兄弟は多少問題があるにせよ
なんと誠実な部類に属することか?えっ!?似ている?そりゃ困った。
 その男の悪行はまだまだあり枚挙の暇が無い。薬物中毒者になったこともある。
殺人の容疑者として取り調べを受けたことがある(実家が名家のためその人脈で
事なきを得た)。自殺未遂も4回ほど起こしている。総括すれば絵に描いたような
「ダメ男」なのである。人として失格とも言える。
 その男の名は本名・津島修治。本当に反省しているのかはわからないが
「生まれて、すいません」が彼のキャッチフレーズだ。そしてペンネームは太宰治である。

その男の最高傑作は?

 太宰治の代表的な小説を挙げるとしたら、おそらく多くの人が『人間失格』を挙げるのでは
ないだろうか?読んだ人も読んだことがない人もその作品名くらいは知っているだろう。
その他には『斜陽』や『ヴィヨンの妻』あたりが挙がるかもしれない。
『人間失格』は正に太宰治の半生を綴ったような作品である。良家に生まれ、
才能もありながら、やがて酒に溺れ、愛する人も失い、どんどんダメ人間になってゆく。
そのスキャンダラスな内容は作者・太宰治の実生活と相まって読者を益々引きつける
魅力を持っている。しかし‥騙されてはいけない。太宰は作品冒頭に出てくる
写真に写った男、生気の無い、特徴の無い、幽霊のような男ではないのだ。
友人も多く、賑やかに呑むのが好きで、実家との関係も良好で、そして美人の好きな
憎めない小ずるい男が正体なのだ。そして何よりもおもしろい小説を書くことに
ほとんどの情熱を捧げている男なのである。妻の津島美知子が没後30年の記念に
『回想の太宰治』という本を出しているが、その中で太宰の妻は、太宰治が
自らの人生を切り売りしていることに嘆きつつも、文章の中身はかなり脚色されている
ことも指摘している。太宰の目的は事実をリアルに告白することではなく、あくまでも
読者を喜ばせることを第一においている。サービスこそプロの小説家たる彼の真髄のようだ。
 太宰治研究の第一人者と言われる細谷博 氏によれば、太宰は前・中・後の三期に
作風が分かれ、とりわけ中期は太宰の人生の充実した時期で明るい内容の名作が多いという
(妻・美知子との結婚から終戦までの時期。時代が時代だけに浮気する暇がなかったのでは?
との評もあり)。中でも『津輕』は氏の最高評価作である。そして私は‥すべての作品に
目を通したわけではないが、やはり中期の『御伽草子』、中でも『カチカチ山』であろうか。
あの童話の「カチカチ山」を太宰風にアレンジした物語である。私はこの太宰のカチカチ山は
男性の誠実度測定器ではないかと思っている。この話を読んだ時、どのように笑うかで
その男性の誠実度が如実にわかるというおそろしい話だ。太宰のカチカチ山では兎は美少女、
泥舟であえない最後を遂げる狸は中年の醜男という設定。この狸、憎めない面白い男である。
特にそのあつかましさが面白い。本当は37才でありながら、兎には17才と詐称している。
私も外でや息子には35才と常日頃詐称しているので、思わず吹き出してしまった
(但し息子には決して他では私の年齢について語らないようきつく言い付けている。
息子ばかりか私まで恥をかいてしまうからだ)。また兎が狸を油断させるために
少し気を許した素振りを見せるや、狸は兎を何の約束もないのに「我が女房殿」などと
言い出す始末。この男のとりわけ中年男性の単純さ、愚かさは他人事ではないように
思われる。私は太宰により不誠実度が高いと判定されたようだ。
 この太宰のカチカチ山。先日テレビで兎は女優・満島ひかりが、狸は皆川猿時が演じて
なかなか面白かった。早速に私はその劇の台本を小説を頼りに作成し、我が家3人で
朗読し楽しんでいる。息子に少しでも活字に馴れてもらいたいのが本当の目的だが、
ただの遊びと思って化かされている息子を見るのも実に面白い。


■ 執筆後記 ■

 満島ひかりと皆川猿時が演じた「カチカチ山」は
太宰治の短編を元にNHKが制作した
『太宰治短編小説集』シリーズのひとつで
再放送されたものである。
私はこの「カチカチ山」の他に
「畜犬談」と「走れメロス」を見る機会を得た。

いずれもよく出来た番組であったが、
「カチカチ山」に関しては
太宰の小説の方が心理描写が細かくて面白く、
逆に「畜犬談」では、小説よりも番組の方が
切り絵風の演出で親しみやすく、
また話もするするとのみ込めて
好感が持てた。
(但し、NHK制作の「カチカチ山」は
番組の構成が劇を順々に作り上げて行く形で
その点は斬新で挑戦的であり面白かった)

私は基本原作重視派で
原作に勝るものはないとの
執筆者尊重、原作大重視の考えだが、
時たま他の人の手が入ることによって、
原作を超える秀作が生まれることもありとの
考えも持っている。
この「畜犬談」がその一例かもしれない。

あとやはりNHKで制作した『夫婦善哉』も
小説よりドラマの方がよかった。
夫婦善哉の原作者、織田作之助は
太宰治の親友であるとのことで、
太宰治が人を評価する基準を知る意味でも
同小説を二読したのだが、
私には話の語り手の視点が落ち着かない箇所があり、
話の面白さはともかく、
ちょっと読みにくい印象が残り、
読み手に少し不親切と感じた小説であった。
その点ドラマでは、主人公のふたりを
どんと中心において、話が分かりやすく、
面白さも伝わりやすかったと言える。

但し、原作を超える作品が出来るのは希である。
とりわけ傑作といわれる小説を新たな演出によって
原作を超える作品に作り上げるのは至難の業であろう。
2010年に若手俳優の生田斗真が
太宰の集大成的小説『人間失格』に主演で挑んだが、
私にはぼそぼそと何を言っているのかわからない
台詞が多々あり、残念な仕上がりであった。
大体、石原さとみに汚れ役をさせるのは無理があるし、
(生々しく演出できないし、私も許さない!)
最後の老婆も三田佳子じゃきれい過ぎる
(こちらは名女優の根性を見せていた)。
いい俳優を揃えても、いい作品は生まれない一例でもあろう。

(おまけに私は農家との付き合いが多いので
 そうと気が付いたのだが、ぼそぼそとしゃべるのは
 上品な農家?田舎人?の特徴のひとつと思う。
 太宰の実家もそんな風にしゃべると
 妻・津島美知子が「回想の太宰治」に書いているので、
 その辺を映画は演出に取り入れたのかもしれない。
 ‥が、あくまでも特殊な事情のこと。
 映画の観客には不親切な設定である。
 私はしゃべる声が人よりでかいので
 そんな風な農家との懇談では
 浮いた自分にしばしば気付く)

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