旅の空色
2017年 6月号
月がきれい
『月がきれい』。毎週木曜日の深夜24時から放映されているアニメ。
埼玉県川越市の中学校を舞台に、川越のリアルな景色を背景にして、受験、クラブ活動、
友達、そして夢といったありがちなイベントの中で、小さな恋を見つめてゆく、
そんな”純愛”物語のアニメである。
最近、録画しておいたこのアニメを息子と一緒に観るようになった。
登場人物たちが中学3年生と、ちょうど息子と同じ年なので、自身のリアルな現実と
比べているのだろう、息子は毎度真剣な眼差しで観ている。またそろそろ気になる
女の子くらいいても不思議ではないお年頃でもあるので、そんな自分の密かな想いと
重ねているのかしれない。
その横で親父は、たわいないこの”純愛”物語を大人の冷めた目で見つつ、
同時に息子の横顔もちょくちょくと観察している。そして時折、その生真面目な横顔に
飽きてくると、意地の悪い親父は息子にちょっかいを出し始める。
「なんだあ、手ぐらい早く握れよ」とか、「さっさと抱きしめちゃえよ」とか、
ちゃちゃを入れる。すると息子は頬を少し赤らめつつ、いかにもこのスケベ親父め!
といった具合の軽蔑の視線を投げてくる。それに応えて親父はにやけた顔でくちびるを
尖らせつつ、ちゅっちゅっちゅっと音を立てたりするのだ。恥じらいの紅潮をさらに
深めつつ、アホな親父には構ってられないと息子は無視を決め込む。
そんなやりとりも毎度お決まりのアニメ鑑賞でもある。
先に”たわいない”と、いかにも大人然とした目線で、このアニメを見下している様子
と表した親父ではあるが、実は内心、ゆっくりとリアルタイムで進むような、
またいかにもありそうな、この日常的な物語の進行に目が離せないのもまた事実である。
とりわけ目を見張るような急展開や刺激敵な出来事があるわけではないのだが、
なぜこのサザエさん的なのほほんとした物語に親父なりに魅了されているのか考えてみる。
するとどうやら、”恋”という甘酸っぱい往時の味を懸命に思い出そうとしている
自分に気が付くのである。時に心躍り、時に切なく、時に傷つけ合ってしまう、
あのもどかしさと甘美なる特異な体験は確かにむかしむかしにリアルに体感したはずなのに、
今や脳細胞の奥の奥にそれらの断片がバラバラになって浮遊している様子が見えるばかりで
その荒涼とした有様に愕然ともするのである。またまるで「あなたは記憶喪失症です」
とでも宣告されたような、その先の記憶がぷっつりと切れてしまっている
自分に気が付かさてれて、おろおろと焦りすら感じる自分がいるのだ。
しかしまた同時に、もういい加減に年だからとか、人並みに通ってきた道だとか、
自分で自分に言い聞かせて、そんな焦りに重石蓋をする滑稽な自分もまた発見するのだ。
そんな心の小さな葛藤を抱えつつ、息子の横顔を眺めると、”若さ”に対する
嫉妬と羨望の心持ちがすべての根底にあることにいよいよ気が付くのだった。
恋の魔性
「今、恋?冗談じゃない!」。
改めて考えて見ると、このアニメにしても、仮に息子が今恋に落ちているとしても、
伝える台詞は変わらないことにも気付く。なぜそんな野暮を言わなければならないのかって。
答えは簡単明瞭、大切な高校受験を控えているからである。今は”恋”じゃない。
”勉強”するのが正に「今でしょ!」というわけだ。”好きな人ができた”と
その熱い想いを語られても、受験からのただの逃げ口上にしか聞こえないのが大人の心情だ。
万が一にも、受験と恋愛が重なった日には、人生の日食、天中殺、ほうき星の来襲、
大抵は不吉な予兆の始まりとなる。さらに”若さ”と”情熱”、そして真面目さが加われば、
それらが風となって仇となって、もはや強風の中での野焼き同然、火勢はますます
広がるばかりとなろう。正に作家・中島らもの短編『恋の股裂(またさき)』状態となる。
ラジオのパーソナリティーでもあった中島らもは、リスナーの受験生から
恋の相談をされた時に最初に語った一言は「それは不運でした」であった。
というのも、もしその恋が本物の恋であるならば、朝に夕に恋しい人をいつも想って、
受験勉強に身が入らないのが当然の成り行きであろうし、逆に今は大切な受験の時だからと、
その恋心を自制することが可能ならば、それはその程度のえせ恋心、
本物の恋と言える代物ではないと断言できるからだ。好きな人に恋い焦がれるのか?
それともそんな恋心はかなぐり捨てて受験に没頭するのか?そんな二者択一の抜き差しならぬ
状態を総じて、中島らもは「恋の股裂」と表したのだった。そう、本物の恋には火が、
”ハートに火をつけて”という歌やドラマを思い出すところでもあるが、
人間の熱き血の燃えたぎる想いである”情熱”が伴うものなのだ。
ところで、この恋に付きものの”情熱”であるが、最近ある事実に気が付いて改めて
その火勢の真の姿に驚いた。”情熱”は、英語圏に於いてはpassionと表されるが、
ある映画の題名を金曜日の夕刊紙に見つけて、その英単語のルーツに隠された語源がある
ことを知ったのだった。その映画とは、あのイエス・キリストのゴルゴダの丘での磔
(はりつけ)をテーマとしたもので、題名が「受難〜passion」とあった。
確かに昔、英和辞書のpassionの項で、情熱の和訳に加えて小さく受難の訳も見た
記憶が残像のようにあったが、なぜ情熱と一緒に受難の意味も同居しているのか、
そこまで考えたことはなかった。このふたつの和訳の関係に、答えをくれたのが英文学者の
大家、中野好夫先生(1985年没)であった。中野先生によれば、この情熱と受難の
真ん中には、「神憑った(かみがかった)行いや振る舞い」という人間の奇行を意味する
ものがあるというのだった。新約聖書に記されたイエス・キリストをあくまでも人間と
見るならば、その言動の奇行さは正に神憑りと言えるし、また恋における時に大胆不敵で、
時に猪突猛進で、また時には死すら恐れない向こう見ずさは、これまた神憑り的な奇行と
周囲の人には見えるはずであろう。ましてや肉親においては、少しは頭を冷やしなさい
といった水を注ぐ忠告となるが、これまたやっかい極まりない情熱で、水を注いだつもりが、
実は油を注いでいたという結果はよくある話でもある。
そんな神憑った行動の情熱が相手ともなれば、行き着いた果ての結果が、
古今東西によく聞く刃傷沙汰(にんじょうざた)という愛情の裏返った末の殺意の登場や、
心中物といったあの世での両思いの成就を願った情死となるのであろうが、
昨今では片想いの積もり積もった末の行いは、ストーカー行為という犯罪判定もあり得る
ので、今の高度な法治の時代、この情熱の取り扱いは甚だやっかいなものとさえ言える
世相かもしれない。しかしまた、この情熱無くして恋ならずというのも真実と思われ、
そこのところを端的にまとめたのが、絵本作家の佐野洋子の小品「愛する能力」だろう。
作中、筆者は女友達から相談を受ける。彼氏に付き纏(まと)っている女がいて、
その女は彼氏の都合もそっちのけで昼夜を問わずに家に押しかけたり、時には出張先まで
付いていったり、やがて私の存在が知れると包丁を持ちだして泣きわめいたりするのだと。
でも私はそんな恋敵に取り乱したりはしないと筆者に断った後で、その理由は、こっちまで
そんなことしたら彼氏がかわいそうだし、だいたい私のプライドがそんな狂ったような
行いは許さないのだと。そんな女友達の悩みに対して筆者の佐野洋子は心の中でこう答えるだ。
(ああ、みよちゃん[女友達の愛称]。この場合はたぶん包丁女の方が正しい。
何で?と問われれば、はっきりとは分からないけど、私はそこまで人を好きになれる
包丁女の方が正しいと思うし、羨ましいとも思う)と。これも情熱のひとつの形であろう。
そもそも二股を掛けている色男に問題があるようにも思われるが、そんな魅力的な人だから
こそ、絶対に譲れない、強い衝動もまた起こるというものだ。
アダム・スミスの時代より
私は恋愛を、例えるなら小鳥のピーチクパーチク鳴き合う姿に見立ててきた。
春に子育ての時を前にして、小鳥たちはパートナー探しにピーチクパーチク鳴き合い、
お互い呼び合って、その鳴き声に会話があるとは思えないが、何かしらお互いに共鳴できる
波長を探し当ててパートナーとする、そんな共鳴作用が小鳥でも人間でもパートナー探しの
基本であろうと長い間考えてきた。人間においては、お互いに馬が合うとか、
何となく落ち着くとか、一緒にいて楽しいといったことを認め合う共鳴作用となろうか。
ところが近年、私としてはこれを上回る説明が思わぬ分野から現れた。
その分野とは古典経済学であった。経済学を持ち出すと、いかにも恋愛を数理的に考える
野暮な試みでは?と思われるかもしれないが、実は経済学者は高度な数学が苦手な人が
多いのも意外な事実である。最近の確率論や微分積分など、数学を駆使した経済学は
数理経済学や金融工学として別称され区別されているが、基本本家の経済学は
言葉を持って論理的に経済事象を説明する、人間社会を考える社会学の一部である。
その元来の社会学から、人間のお金を介した経済行為を専門に研究する学問を
最初に枝分かれさせたのが古典経済学であり、そして古典経済学の開祖といえば、
イギリスはスコットランドの賢人、アダム・スミスその人となる。
アダム・スミスは生涯において2冊の著作を残している。ひとつはこれまた余りにも有名な、
一国の経済の仕組みの基礎を説明した、例の”神の見えざる手”の台詞が今もって
繰り返される「国富論」である。
そしてもうひとつの著作は、法学の専門家でもある多才なアダム・スミスらしく、
法律のひとつ手前となる秩序、道徳はいかに作られてきたかを説明する「道徳感情論」
という本であった。この「道徳感情論」の中に私は、先に書いた共鳴作用を上回る、
恋愛の基本となるものを見出したのだ。
「道徳感情論」とは、至極簡単に言えば、読んで字の如く、道徳は人々の感情で作られる
ことを説明したものだ。ある人間の行いが、その社会にとって適切か、もしくは不適切か、
それはその社会に属する人々が、その行為に”共感”できるかどうかで決まると論じている。
ここでポイントとなるキーワードはこの『共感』=symsathy(シンパシー)である。
ほぼ同時期にやはり同じスコットランド人のデイビット・ヒュームという人物が、
今では読まれなくなったイギリスの歴史の名著「イングランド史」という本を書いていて、
その中でもこの『共感』という言葉が登場するのだが、当時のイギリスの知識人の間では、
人間社会は『共感』によって作られているという「共感の理論」と言われる考え方が
よく知られていたようだ。この人間社会の根底を支えるという「共感の理論」は、
現代においては当たり前過ぎて今更話に挙がらないのか、それともそれから生まれたもの、
その社会固有の道徳や法や文化の影に隠れて、見えなくなってしまっているのか分からないが、
この「共感の理論」をふたりの人間の間に、最も最小化した人間関係においた時に、
恋愛を説明できることを再発見したのだ。ここに至り、私の考える恋愛の基本は、
”共鳴作用”というよりは、『共感』を積み重ねて行くもの、
”これ美味しいね”とか、”あれ面白いね”とか、”一緒にがんばれたね”とか、
そんな想いを幾重にも重ね続けてゆくものと考えるに至ったのだった。
(ちなみにアダム・スミスの「道徳感情論」は、あまり知られている本ではないが、
経済活動における人間のあるべき姿を説いたもので、「国富論」とは双子の書と言える。
また余談だが、AKB48の歌の中に「重力シンパシー」という歌と見つけて、
さすが秋元康だな〜、恋愛哲学をさりげなく混ぜているのかと感心したが、歌を聴いてみると
乗り合いバスで同じ遠心力を感じてるねというただの片想いの内容でがっかりしたものだ。)
こんな風に、柄にもなく、今回は約半世紀生きてきた末の「恋愛論」の一端を展開したが、
こんな話、あの世の太宰治が見たならば、「毎度、毎度、あいつの話は回りくどくて
野暮ったらしくていけねえ」などと揶揄されるかもしれない。
もちろん恋愛は各人の生まれや性格、嗜好、環境などで多種多様、またこれに求めるものの
違いが掛け合わさると千差万別となり、ひとつとして同じ型の恋愛はないのかもしれない。
また私のようにおしゃべりな人もいれば、寡黙な人もあって、コミュニケーションの
取り方も十人十色であろう。しかし、仮に一時的だとしても、傷つき易い繊細な二つの心が
寄り添うためには、様々な場面での『共感』の積み重ねが大切との悟りに至ったのだった。
果たして息子はどんな恋をするのだろう?体ばかり現在身長180cmほどと、
親を超えているが、未だに幼さが残る横顔を見る限りでは、その予兆はないように見える。
息子の恋にとりわけ関与するつもりは毛頭無いが、身近な観察対象として、
その成り行きを覗き見ることは楽しみとしている。
一つ戻る
■ 執筆後記 ■
経済の歴史、いわゆる「経済史」を学ぶ者は
人類史におけるひとつの歴史的な考察として居るだろうが、
ここに紹介した「古典経済学」を学ぶ者は今更少ないだろう。
ところがそんな忘れられた、今や銅像を眺めるだけような存在の
アダム・スミスが10年ほど前に再考察されるという小さなブームがあった。
その切っ掛けは例の2007年のリーマンショックであった。
人間の強欲が作り出したシステムが崩壊の危機に見舞われた時、
一体どこで道を間違えたのかという再考察が盛んになされた。
その再考察のひとつ、原点回帰がアダム・スミスの
今更ながらの掘り起こしであったわけだ。
アダム・スミスの展開する経済学において
重要な役割を担うのが「公平なる観察者」という
人間の中に存在すべき第二の自分である。
これはスコットランドにおける、伝統的なジェントルマン精神から
生まれたひとつの精神論かもしれないとその起源を推察しているが、
「公平なる観察者」とは、自らの心を常に磨いて、
どこまでも客観的に人間社会にとって公正な判断を下す
もうひとりの自分を作り出す試みと思われる。
簡単に言えば、極めて道徳的な心を持つことである。
その心=「公正なる観察者」をもって、常に自分の判断や行動を
律することが社会の健全な成長を促し、
経済活動に参加するすべての人に求められる最低条件と
アダム・スミスは考えたようだ。
これをもってリーマンショックを反省すれば、
一部の人々によるGreed=貪欲は、その社会性・道徳性の欠如から、
経済システムに大きな打撃をもたらすだけでは収まらず、
まったく関係のない、普通の人々の生活をも巻き込んで、
経済そのものの崩壊にまで及ぶことがある。
そんな歴史的実例がリーマンショックとその後の悲劇と負債ということになろう。
しかしまた、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という格言も真理のようで、
昨今では大きな利益を逃がさないために、リーマンショック後にタガをはめた
金融規制を緩める動きが出てきている世相でもある。
アダム・スミスにおいてはもうひとつ、
歴史的にも経済学的にも大きなキーワードを記している。
それは有名な「神の見えざる手」という言葉である。
これは市場(しじょう)には需給バランス機能があり
(需要と供給の自己バランス機能)、
まるで”神の見えざる手”によって操られるが如く、
自然と秩序が保たれるという考えを端的に示したキーワードである。
とても重要なキーワード「神の見えざる手」で、
現在アメリカの経済を牽引している新自由主義の根幹となる
”市場の自己調整機能”=市場がすべてを決めるという考え方の
元となるキーワードであるが、果たしてアダム・スミスは
この神の見えざる手の力量をどこまで信頼していたのか、
実は分かっていないのも事実であるのだ。
というのも、重要なキーワードであるにも関わらず、
かの『国富論』で出てくるの1カ所のみで、
さらっと書いてあるだけで、特に詳しく掘り下げているわけではない。
アダム・スミス自身、そんな機能が市場にはあるという意味で、
上手い表現だと”神の見えざる手”を自画自賛したと思われるが、
その自己調整機能に絶対的な信頼が置けるかどうかは、
言及していないのもまた事実なのだ。
後の人が都合良く勝手に拡大解釈したことも歪めないと言えるだろう。
そこら辺に疑問を投げかける学者も居るには居るが、
(例えば日本の知識の巨人のひとりと言われる
経済学者の岩井克人先生など)多勢無勢で、
そんな良心的な忠告も、市場の喧騒にかき消されてしまうのも現実である。
先の金融規制緩和の動きといい、人間は酷いことに遭わないと
行いを正さないようだし、そして悲しいかな、また懲りない性分でもあるらしい。
正に”歴史は繰り返す”元凶と言え、
”賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ”というオマハの賢人の言葉にも繋がる。
ところで話はがらりと変わるが、恋愛において大事なことのひとつは何か?
ある恋愛心理学者は”魂を磨くこと”だと言っていた。
”心の美しさ”は、その人の魅力に直結すると。
その昔、北アメリカ大陸の原住民のインディアンは
この”魂の穢れ(けがれ)”を嫌い、恥ずべき行為は行わないように
常に自分を律していたという。
「インディアンは嘘つかない」のルーツであろうか。
私も商売柄、よくこの心の美しい人、
いや正確には心の美しい部分に出会う。
自分が同じものを持っているからとそれに気付くのではなく、
その心根(こころね)に”共感”を憶えるのである。
ただ、だからといって私がそれに習って同じ心根を持てるわけではないし、
むしろ私には持てない場合が多いように思われる。
私にはない、いや私にはできない、その心根が放つ
言葉、仕草、気持ちに羨望という名のまぶしさを感じると言っていい。
そんな時は、老若男女に関わらず、その人がとても魅力的に見える。
完全な人間などは居ない。
人はどこか負の部分も抱えているものでもある。
でもそんな中で、輝く心根の欠片を見つけた時に、
私はもう一度人を信じてみようと思い直すのだ。
もしあなたの側にそんな欠片を持つ、心根の美しさを感じられる
ひとが常といるならば、あなたは幸いである。
一つ戻る