旅の空色


2017年 4月号


再挑戦『人間失格』 その6  あとがき

〜 太宰の面影を訪ねて 〜

 冬2月の弘前駅は雪に埋もれてる。
日がな一日どんよりとした雲が空を覆い、ふわふわと、ハラハラと、さらさらと、
時にぼたぼたと、常と雪が降り注ぐ、そんな日常で、片付け切れないのが実情なのである。
さすがに駅前のターミナルこそは除雪が行き届いてはいるが、その他は最低限の場所、
人が行き交うところだけ、申し訳なさ程度に、雪をいじってるといった具合だ。
また駅のホームの両端などは、手つかずに雪が降り積もって、雪山のような有様ともなる。
そんなホームの雪山の向こう、南の方から、ディーゼル機関車に引かれた青い車体の列車が
だんだんと近づいてきた。東京・上野と青森を結ぶ夜行寝台特急列車「あけぼの」、
いわゆるブルートレインの勇姿を実際に目にしたのは初めてだった。
「途中での雪のため、到着が10分ほど遅れたことをお詫びします」
列車の到着を告げるアナウンスの後に、そんな断りも流れた。
なるほど、先頭の機関車は激しく降る雪をかき分けて走ったため、塗装の色が見えない程に
びっしりと白い雪が張り付いている。それに続く青い客車も、雪風にひっかかれた傷のように
まだらに白い不規則な線がこびり付いていた。そんな痛々しい列車の姿とは対照的に、
客車の窓という窓は、車内と外気との温度差のためだろう、結露の水滴がまるで汗のように
吹いている。そう、まるで向かい風と雪の中を懸命に走ってきた姿を代弁するかのようにだ。
「この電車、れん(息子の名)と一緒に乗ってみたかったんだよね。動くホテルって
呼ばれているんだよ。」と当時小六の息子に告げると、向かいのホームに滑り込んだ
その青い車体を息子は物珍しそうに眺めている。しかし、そんなささやかな願いは、
今や夢の又夢となることもわかっていた。来年のダイヤ改正で廃止が決まっているのだ。
憧れの列車を白い世界の中で一緒に眺めたわれら親子の一光景、それも今では面影となった。

 弘前駅9時39分発の深浦駅(ふかうら)行きの鈍行に乗れば、五所川原(ごしょがわら)
までは50分足らずで行ける。というか、約束の13時までに間に合わせるには、
その電車しかなかった。というのも五所川原方面を通る鉄道・五能線は、いいところ
2時間に1本程度しか電車がないからだ。五所川原駅からは津軽鉄道に乗り換える。
今や冬の津軽では風物詩となったダルマストーブを載せたあの電車である。
意外だったのは、ダルマストーブのある古い客車はあくまでも観光用だったことだ。
一般の普通客車1輌にストーブ列車2輌の計3輌編成の電車はちょっと風情を損なうように
感じられたが、それはそれで意味のあることだと後でわかることとなる。
津軽鉄道も1時間に1本程度の運行とあって、発車時刻が近づくとホームにはとりわけ
観光客が吹き溜まる。もっとも絵になるストーブそばの特等席は取れなかったが、
何とかボックスシートを占領できてほっとした。電車が走り始めると、早速に売り子が
酒やするめを売りに来て、するめをダルマストーブの頭で手際よく焼き始める。
正にテレビの旅番組で観た通り、車窓の雪景色を眺めながらのささやかな宴会の始まりとなる。

 と、最初はその旅情を楽しんでいたのだが、やがてある事が気になり始めた。
それは臭いである。イカ臭いのだ。そりゃ、あれだけ次から次へとするめを焼けば、
外の厳しい寒さゆえに窓を開けられない車内がやがて臭いで満たされるのは道理というもの。
しかもストーブ電車は古い車両で、他の車両に逃げられない定めにもあった。
過ぎたるは及ばざるが如し。旅情を楽しむのもほどほどの中でということを学ぶ。
衣服にこびりつくほどにストーブ列車を楽しんだので、帰りは一般客利用で空いている
先頭の普通客車で雪をかき分けて進む運転手気分を楽しむこととした。

 津軽地方北部にある海水と淡水の混ざり合う大きな湖、十三湖(じゅうさんこ)。
そこで取れる名物シジミを使ったシジミラーメンを駅舎の上にある食堂で食べた後に、
約束の金木(かなぎ)駅前の段差でツアー主催者である角田さんという人を待っていた。
人気のツアーであるので、もうちょっと参加者が固まっていそうなのだが、
この津軽鉄道の金木駅がもともと観光客の出入りが多い駅なので、それらしい人達を
見分けるのも難しかった。そんな景色の中でもただひとり、ヘンな人物がすぐ後に立っている
のに気が付いた。丸顔の上には小学校の運動会で使うようなゴム付きの白い帽子、
小太りの体に白い長袖シャツ、短い足には紺のスラックスズボン、そして白いスニーカー。
私がファッションを語るのもなんであるが、いい大人にしてはトータルコーディネートが
ちぐはぐで幼稚、そして何よりも厳寒のこの地では全く相容れない、無防寒の姿なのだ。
もしかして‥、このあえて目立つ出で立ちは芸能人なのかも。そう思い巡らせれば
お笑いトリオ・ロバートの秋山に似てなくもないが、すぐに似て非なりとわかった。
君子危うきに近寄らず。最初はその奇妙な姿格好を警戒して距離を置いて眺めていたが、
やがて好奇心が優り始めて、一体あなたは何者ですか?と確かめたくなった。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。ついに我慢できなくなった。
「何かイベントでもあるんですか?」用心深くそう問い掛けると、
「いえ、これから地吹雪体験ツアーの取材なんです」と気さくな応えが返ってきた。
聞けば彼は五所川原市のイメージキャラクター???だそうで、常にこの姿形で市内の様々な
場所を季節やイベントに合わせて紹介して回るのを仕事としているらしい。
しかも彼はれっきとした五所川原市”市職員”であるというのだ。つまり今この出で立ちで
公務中というわけだ。日本全国津々浦々、各地の市町村が我が郷土の魅力を上げ、伝えようと
創意工夫を凝らしていると思うが、その努力の一端に間近に触れられたのと同時に、
公務とは言え、この厳寒の中でのそのイメージ作りの徹底したこだわりに対して、
思わず「ご苦労様です」と心から労いの言葉が出てしまった。
後から改めてネットで彼のことを調べてみると、五所川原の”生きた”イメージキャラクター
「おもち君」というのが彼の正式名称だそうで、五所川原紹介の動画をまめにアップしている
ようだ。実は私達も地吹雪ツアーの参加者で、”おもち君”とも一緒にその体験できるはず
であったのだが、残念ながらこの日は地吹雪が発生しなかったために、おもち君の取材は
中止になったらしく、いつの間にかその姿は煙と消えていた。しかし見方によれば
たまたまその土地の精霊にでも出会したような、よい思い出となった。

 地吹雪は体験できなかったが、雪の上をかんじきを付けて歩いたり、
雪遊びをしたツアーの帰り道に、金木町にある雲祥寺(うんしょうじ)に連れて行かれた。
この寺の名物はお堂内の左側にガラスに覆われて展示されている大きな地獄絵である。
ガイドの角田さんに「ほほう。これが太宰の作品に出てくる例の地獄絵ですね」と
声を掛けると、角田さんはニヤリと笑ってそうですと応えて簡単に説明を始めた。
太宰が幼少の頃、乳母のタケに連れられてこの寺を訪れる度に、おっかなびっくり眺めた
という太宰の作品「思い出」に出てくる絵である。また生田斗真が主演の映画「人間失格」
では、この地獄絵と後生車(ごしょうぐるま)が冒頭シーンを飾っていた。
その後生車の方は、ほとんどの人が気が付かないであろう入り口の山門の影に見つけた。
(後生車とは、木柱や石柱に車輪をはめ込んだもので、車輪を一回転させるとお経を
千巻読んだのと同じ効果があるという、大変便利な、ものぐさにはありがたいものである。
チベットのマニ車が同様の効果で発祥と思われる。日本では主に願掛けとして回される
そうだが、太宰の作中では回した後に車輪が少しでも逆回転すると死後に地獄に落ちると
語られて、触るのも怖いものとされていた。映画『人間失格』では、回した後に少し戻って
主人公・大庭葉蔵の先行きに暗い影を暗示していた)。

 雲祥寺からほど近い、太宰治の記念館「斜陽館」前でツアーは解散となった。
早速に太宰治の生家でもある大屋敷の玄関を潜る。おそらくは太宰の作品を熟読した人
ならば、まるで自分の実家にでも帰ってきたような、そんな気にさせられるに違いない。
それこそ作中でよく知った間取りでもあるからだ。入ると、土間が屋敷裏まで突き抜けていて、
左側にはひな壇状に板の間が配されている。少し高さを違えて重なるこの開けた三間こそ、
作中に出てきた上段に当主を頂点として家族がその格の順に居並び、粛々と食事をしたという
居間であるとすぐに知れる。また土間の奥、裏口から外を覗くとすぐに米蔵があって、
収穫の秋には米俵が山と積まれて、その中で遊んでいて怒られたというエピソードを思い出す。
さらに奥の別の米蔵では、入り口の石段に幼き太宰の写真があって、三段の居間で食べる
厳粛な食事の景色に耐えかねた幼い太宰が、ひとりここで座って食事をしたという姿が
ありありと浮かんでくる。遊びの彫刻が随所に施され、洒落たガラス窓の光で明るい
立派な階段を二階に登るといくつもの仕切り間があり、南側に窓が連なる明るい長い廊下の
奥に、太宰の育った大きな和室があって、恵まれた環境に改めて目を回すことになる。
もっともそんな感傷は太宰の背景を知ればこそのものであって、連れの息子や友人のような
通りすがりの観光客の目からしたら、ただの立派な旧家のひとつで終わってしまうだろう。

 この家ではもうひとつの面白いエピソードがあると言ってよい。
太宰治の実家である津島家とこの屋敷内においては、太宰が起こした鎌倉での心中事件を境に
太宰治、本名・津島修治の話をすることは御法度(=禁止)という暗黙の了解ができたことだ。
つまりは太宰治はその事件以来、家の恥であり、絶縁状態となっていた。ただそうは言っても
月々の仕送りはしたり、戦争中は疎開先として太宰一家を離れの屋敷に受け入れているので、
太宰の兄であり、家長である津島文治の胸中には、名家としての世間体とやさしさの間で
葛藤があったことが想われる。

 しかしそんな名家・津島家も時代の波に翻弄され、大きな変化を強いられる。
アメリカの占領軍・GHQの政策のひとつの農地解放により、大地主である津島家の
所有農地は小作人に分け与えられて、その年の秋から一切の実入りがなくなったのだった。
それまでは溢れんばかりの米俵で埋まった米蔵に、それからは一粒の米も集まらなくなった。
大きな屋敷と大きな敷地、大勢の使用人を抱える津島家はたちまちに困窮に陥って、
間を置かずに屋敷と敷地を手放さざるを得なくなった。そんな土地屋敷を可能な限り
在りし日のままで救ったのが、津島家では厄介者扱いだった太宰治の名声だったのだ。
その後、同じ町の商家に買い取られた土地屋敷は、太宰治を偲ぶ旅館として開業し、
後々に旅館の経営が行き詰まると五所川原市が譲り受けて、現在の「斜陽館」となっている。
「斜陽館」の仏間には、たたみ三畳大の巨大な豪奢な仏壇があるが、一時は旅館業には不要と
売却されてしまったものの、その後太宰の歴史の一部として買い戻されて、
今もその絢爛豪華さで見学者を驚かせている。太宰は生前、俺が死ねば全集が出て、
家族は(経済的に)助かるとよく語っていたそうだが、まさか実家の屋敷まで、
さらには先祖供養の仏壇まで、救う結果になろうとは、ゆめゆめ思わなかったであろう。
 いやいや太宰の善行はそれだけに収まらない。こんな本州の最北端、決して交通の便の
良くない、見るべきものもあまりない、僻地・津軽に太宰の面影を偲ぶ人々を呼び込んで
いるのである。おそらくは津軽鉄道も、十三湖のしじみも、地吹雪も、おもち君の活躍も、
そして津軽の何気ない雪でさえも、最初に太宰ありきでなければ始まらない名物であろう。
太宰治の生涯においては、本人のわがままと文学を一心に追求するあまりに、
自らと多くの人々を傷つけてきたので、安易に終わりよければすべて良しとは言えないが、
それでも今もこれからも残るであろう太宰の陽の部分、その輝ける功績を想う時、
小説「人間失格」の最後の最後、元バーのマダムの台詞がいつも思い出される。
「あれでいて葉ちゃんは、神様みたいないい子でした」と。

 私の太宰の研究はこれでひとまず区切りをつけるつもりだが、太宰との関わり合いは
これからも続きそうだ。というのも、太宰ゆかりの地で訪れてみたい場所が津軽には
まだまだあるからだ。次の旅の計画では、小説「津軽」に登場する竜飛岬を目標としている。
小説に書かれている陸が海に落ちるような岬の光景を確かめてみたい気持ちがあり、
また地吹雪が体験できなかったことに心残りがあって、厳寒の時期に強風の吹き荒む
津軽海峡の冬景色を前に、津軽の冬の厳しさを芯まで受け止めてみたいのだ。
それに都合のいいことに、竜飛岬のすぐ側には、露天風呂付きの温泉浴場と、石川さゆりの
「津軽海峡冬景色」や新沼謙治の「津軽恋女」を熱唱できるカラオケ付きの立派な旅館も
あるのはすでに下調べ済みである。またその他にも、NHKで放映された黒石市の100円
プレハブ温泉にも行ってみたいし、津軽富士といわれる岩木山の麓のスキー場で滑っても
みたいし、東北三大歓楽街のひとつ、弘前市の鍛冶町も覗いてみたい。弘前城での
春のお花見や秋の津軽三味線大会、五所川原の夏のたちねぷたに、春を告げる蟹田の
トゲクリガニ、大鰐(おおわに)温泉の湯も未体験だし、電気のない青荷温泉の夜も神秘的
だろう。いやはや一体何度足を運べば気が済むのか。太宰という名の酒のもと、
それぞれの地域のネタをつまみに、噛めば噛むほど味の出る、そんな青森・津軽である。


■ 執筆後記 ■

上記の旅の記録は2013年3月号の『冬津軽』での
金木訪問を中心としたバージョンである。

2013年のエッセイでは冬の青森旅をさらっと紹介し、
今回は太宰治の古里の金木を細かく書いたが、
この時の冬の青森旅は3日間ともにとても充実した内容であった。

もともとの旅のきっかけはテレビで
「地吹雪(じふぶき)体験」を見たことだった。
地吹雪とは強風によって積もった雪が舞い上げられる
言うなれば雪の砂嵐版である。

以前仙台で働いていた頃に、同僚の青森担当者から
地吹雪で死にそうな経験をしたと聞いていたのだが、
最近では体験観光として人気があるそうで、
とりわけ暑い地域のひと、テレビではハワイから来た観光客だったが、
凍てつく寒さに加え、全身に張り付く地吹雪の雪に
早々に観光バスに逃げ込む様が滑稽であった。
まあ、私としてはひとつの怖いもの見たさだったわけだ。

ところが今回の旅の第一目的である
肝心要の地吹雪は起こらずに体験できなかった。
とても残念な結果だったわけであるが、
その代わりに偶然にも「おもち君」に会えたことは
幸運だったと言えるだろう。
もっとも最初から彼の存在を知っていたら、
一緒に写真を撮ってきただろうが。

そんな地吹雪を体感できなかったこの旅の心残りが、
冬の雪と風が荒れ狂う竜飛岬を目指すという
次の動機に繋がっているのだ。

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息子・錬と友人K。地吹雪会場にて。
青森ではこんな風に子供をソリの乗せて歩く家族連れをよく見かけた。