旅の空色


2009年 6月号




○○○○はマラソンじゃ登れぬ

 実際に自らの足で歩いてみるとわかるということがある。初めてその傾斜を体験したが、
下りでつくづくよかったと思った。いにしえより主街道として踏み固められた道であろうが、
現代人より足腰の強かったであろう昔人にとってもやはり難所であったことが偲ばれた。
昔はこんな坂道を延々と上らなければその先の地に行けなかったのだ。
 昔人は「馬でも越せる」と歌ったが、これは馬や駕籠(かご)の助けがあれば楽に越せる
という含みで、人の足で上ることを前提に歌ったものではないことを今回我が身を持って
知った。実際地元の街道資料館によると随分と高い馬代や駕籠代にもかかわらず、
それらの助けを使うのが一般的であったようだ。江戸期、一般的な宿賃が現在のお金に
換算して2000円〜3000円であったのに対して、馬や駕籠の乗車料は峠の片道で
15000円〜20000円とかなりの高額であったそうで、距離からすれば現代の
タクシー代とさして変わらぬ運賃である。にもかかわらず多くの人が馬や駕籠を
利用したのは、長い旅路での極端な体力の消耗を抑えたいことや、大きな関所があるゆえに
緊迫したこの地に長逗留したくない事情もあったのではと思われる。なにかことがあり
関所を封鎖されてしまっては先に進めなくなるからである。しかしこの難所以上に
旅人の思うに任せなかったのが江戸の防衛上の理由からあえて橋を架けることを
許されなかった「越すに越されぬ大井川」というわけだ。川の水量や天候により
いくら急いでいても渡れない時には命をも賭ける度胸がなければ渡れないからであった。
 恥ずかしながら今回初めて知ったのだが、有名な箱根八里といわれる本街道は
箱根登山鉄道の箱根湯本駅手前を左折、箱根湯本温泉街を貫く早川に架かった三枚橋を
渡ってより始まる坂道であって、毎年お正月に熱く観戦している箱根駅伝の
マラソンコースは箱根七湯といわれる七つの箱根温泉を巡る脇街道であったのだ。
箱根本街道は三枚橋を渡り、奥湯本温泉街沿い左に登り始め、寄せ木細工で有名な畑宿
(はたしゅく)や一息入れる甘酒茶屋を通り、お玉ケ池を眺めて元箱根に至るおよそ
12kmの登り坂である(この行程を踏破するには上りでおよそ3時間半を要するそうだ)。
特に畑宿から元箱根の間には往事の街道の姿を残す石畳の旧街道跡が大切に保存されていて、
昔日の旅の様子を今に伝えているという。箱根には本街道の他に『湯の道』と
『生活の道』の2つの脇街道が古くからあり、箱根湯本温泉より箱根登山鉄道沿いに
富士屋ホテル前の宮ノ下交差点を左折して、箱根小涌園前を左に曲がってゆき
元箱根に至る道、箱根駅伝コースであり現国道一号線が『湯の道』となる。
『生活の道』は主に箱根街道筋に住んでいた住民が生活道として利用していた道だそうで、
宮ノ下をまっすぐに仙石原へ向かい、金時山中腹の乙女峠を越えて御殿場へ至る
現国道138号線である。今では明らかに脇街道の方が主要道路となってしまったが、
それもそのはずで実際歩いてみればわかるが、旧本街道は道が狭い上に傾斜もきつく、
車道としても腕の要る険しい峠道となっている。いわんやここをマラソンでタイムを競って
走ったら、心臓が破りどころか、本当に心臓に響いてとても息が続かないだろう。
友人たちと泊まった奥湯本の旅館より箱根湯本駅までおよそ40分くらい下っただけで
あったが、有名な難所の真の姿を一部を体感できた次第であった。

旅好きも昔人に負けました

 旅行好きな私であるが、今回箱根で訪れた街道資料館でおもしろい資料を目にした。
経済的にも文化的にも充実し始めた江戸時代中期より、庶民の旅行は御伊勢参りを主に
一般的になったそうであるが、資料館には今の世田谷区に住んだというあるご年配
(60才過ぎだったと思う)の3ヶ月に上る大旅行の記録が展示されていた。
世田谷を出発し、横浜、箱根と東海道を上って最初の目的地の御伊勢詣でをし、
伊賀を越えて奈良・京都・大坂と見物、大坂より四国の徳島へ船で渡り瀬戸内海沿いを
高松、そして松山の道後温泉でひとっ風呂浴びて、瀬戸内を船で渡って向かいの広島・
厳島神社を参拝、岡山・姫路を眺めながら再び大坂・京都と抜けて、琵琶湖畔を通って
中山道を岐阜・飯田・松本・佐久と下り、関東には高崎から入って故郷・世田谷に帰るという
大旅行であった。90日間超、旅館も通常より上クラスの旅館に泊まっての旅だそうで、
当時としてはこれだけ見て回れば冥土への土産話は十分(おそらく本人もその気だったに
違いない)といった内容の私としても実にうらやましい旅体験の記録であった。
が‥当時としては徒歩で回らなければならないというのが、贅肉の付いた私にとっては
玉に瑕(きず)か。ちなみにこの大旅行の旅行代金はというと現在価値にしておよそ
80万円超だそうで、安宿に泊まり徒歩か自転車で巡れば現代と変わらぬ予算であろうか。
またこのご年配も箱根越えは高い乗車料にもかかわらずやはり駕籠を利用していた。
当時としてもこれだけの大旅行の旅費を持って歩くのは物騒な話であったそうで、
そこは現代に言い換えればトラベラーズ・チェックのような仕組みもできていて、
両替商でお金を預けて割り符を発行してもらえば、各地の両替商でお金を引き出せた
そうである。また全国津々浦々というわけにはいかないが、現代の宅急便のように
飛脚によるお金や荷物の発送サービスも発達していたそうだ。徳川家康の築いた
争いのない太平の世は、庶民の旅事情にも十二分に恩恵をもたらしたのである。
ただ別の時代検証によれば女性の一人旅はもちろん、女性のみの旅についてはかなりの
困難が付きまとったともある。関所などでは女性のみの旅は珍し過ぎるのか、
門前で門番に追い払われる洗礼から始まったそうだ。そんな門番には心付け(賄賂)を
渡したり、関所が難しい場合には近隣の宿屋でやはり心付けを渡して、抜け道で関所を
迂回する関所破りの方法もあったそうだ。関所破りはすぐ死罪に直結する大罪であるが、
そこは太平の世、ちゃんとお役人に話が通じていて見ざる言わざるであったそうである
(まあ関所の方も江戸期の旅行ブームで通行人の増加に頭を痛めていたこともあるのかも
しれない)。しかしながら不運にもこの暗黙の了解のルールを踏まずに関所破りで
死罪になったひとも時代を通じて数人いるそうで、そのひとり10才を過ぎたほどの
若き奉公娘・お玉の遺骸を清めたのが箱根本街道にあるお玉ケ池だという話も聞いた。
 時々友人に海外旅行に行かないか誘われることがある。本当はそんなお足がないのが
一番の理由であるが、店をそんなに空けられないとお断りしている。しかし本心は
日本国内の未踏の地はもちろん世界中にも見たい行きたい食べたいところがたくさんある。
世田谷の御仁のようにいつか旅立つ冥土への土産話はたくさん用意したいものである。
そんな思うがままに旅行できたら…きっと山の神の怒りにふれて
帰る場所がなくなるであろう…。


一つ戻る

■ 執筆後記 ■

 日本人の旅の大衆化の発祥は「お伊勢参り」と言われています。
その意味で、平成25年8月に家族3人でその「お伊勢参り」をできたのは、
自称「旅バカ」としては、ひとつの節目になったと感慨深いものがありました。
また20年に1度の式年遷宮でもあり、


 「旅バカ」と自称しているが、
通常の生活は極めて出無精、
外出嫌いかもしれない。
矛盾している。

東京に遊びに行きたいと思わない。
ディズニーリゾートに行きたいとも思わない。
よほどの用事が無い限り、近くにある
日本最大級のショッピングモール
「イオン 越谷レイクタウン」も然りである。
ぶらぶら外の空気を吸う、そんなことは面倒なのである。

なにかこころ躍(おど)るような大きな目的が必要なのだ。

情報で、テレビ番組で、聞いた話で
そんな大きな目的が見つかれば、
もうそわそわして気持ちが落ち着かない。
こころはすでに目的に向かって出発しているのである。

近場にしても、遠くにしても、私のお出掛けは
”きらめく希望の地を示した冒険の地図”を必ず片手に持っている。
エッセイで書かれてきた多くの旅は、そんな旅ばかりのはずだ。





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