旅の空色
2009年 3月号
100円玉を握りしめて、私は電光掲示板をにらんでいた。
車窓には慣れ親しんだ街の風景が流れ続けているが、目は掲示板の数字についつい
向かってしまう。握りしめた硬貨は体温でだんだんと熱くなり、私の秘めた緊張を
一身に受けているようでもあった。たかがバスで最寄りの駅まで乗って行くだけであるが、
旅慣れた私でも実はバスは大の苦手である。ワンマンバスでのあの料金支払いシステムが
未だにどうも馴染まないのだ。乗り口で乗車場の数字が書かれた整理券をとってより始まり、
あの運賃がどんどん変化してゆく様や、そして最後には何よりも釣り銭がないように
小銭をそろえて小さなベルトコンベアーが流れる透明ケースに銭を投げ込むまで、
最初から最後まで落ち着く暇がないからである。
さらに降りてからもちゃんと料金は間違っていなかったかの後味の悪さまで付きまとう
(あの料金箱で正確に運賃を把握できているのかいつも疑問に思っている。運転手の
目視に頼る確認法なのか、それとも見えない部分に貨幣の識別機があるのか謎である)。
私もその失敗があるが、乗り慣れていないひとが整理券を取り忘れたり、
小銭を用意していなかったりすると大変である。のんびりした田舎の路線なら
運ちゃんが柔軟に対応してくれるだろう。しかし時間に追われせかせかしがちな
都市の路線となると場のリズムを崩す迷惑者といった雰囲気に一変する場合がある。
最近では大きなお札も両替できる機械が取り付けてあるようだが、
以前私は一万円札1枚しか持ち合わせがなくて降りるときに困ったことがあった。
降り口に立ったままで降りるに降りられず、やがて運転手さんが呆れ顔で両替の協力を
仰ぐ車内アナウンスをし始めたりで赤面の限りであった。うまい具合に両替できるお金を
持っているひとなどなかなかいないものである。ああ…バスに乗るとわかっているのに
俺はなんとバカなんだと自分を責めていたその時、年配の女性の方が使ってくださいと
私の運賃の小銭を立て替えてくれた。地獄に仏であったが、普段乗らない路線であったので
今度は借りても返す手立てがないことに気がついた。そんな当惑した私の心を読み取った
のかその女性は「気にしないで」と笑っていた。その後やはりその女性と会うことは
二度となかった。しかしその時以来、もしあの時の私と同じように料金の支払いで
困っているひとを見かけたらあの女性のように立て替え払いをしてあげようと心に決めた。
そして今回の短いバス乗車では残念ながらその機会は訪れなかった。
バスが苦手と書いたが、だいたい普段からバスにしても電車にしても乗り慣れてない
ゆえの苦手もある。なにせ仕事場までスキップで10秒という自宅兼仕事場の環境なので、
滅多に公共交通を利用することがないのだ。おそらくは年に10回あるかの程度であろう。
毎日ぎゅうぎゅうの通勤電車に揺られて仕事場まで通う人からすれば、理想的な環境
なのかもしれない。しかしたまにバスや電車を利用すると人々の流れに乗れずに
おどおどすることが多く、まるでさっき里山から下りてきたばかりの田舎者のような私
でもあるのだ。毎度いい大人が恥ずかしいと感じ入る次第であるが、
私の友人たちの多くは同じような環境の同業者ばかりであり、里山に住むたぬきのような
ひとたちばかりとも言える。そんな『平成狸合戦ぽんぽこ』のような里のたぬき臭さも
長く友達でいられる理由のひとつかもしれない。
鈍行特急のVIPな旅
今回そのたぬきのひとりと北千住の駅で待ち合わせをしていた。慣れない乗り物ゆえに
時間には余裕を持って出てきたつもりの私であったが、待ち合わせの場所には
ぎりぎり5分前の到着で、結局ドキドキした移動であった。と彼の姿が見えない。
せっかちな男であるのでその辺をうろうろしているのだろうと電話をかけてみると
やっぱり駅周辺を散策していた。彼は台東区浅草在住のちゃきちゃきの江戸っ子なのだが、
隣駅の南千住からひと駅だけの乗車なのに30分も前に着いて時間を持て余していたそうだ。
私同様に普段電車を使うことがないので時間を読めないのだ。同じ田舎者だねとからかうと、
南千住より北へ下ったことはないからとぬかしていた
(と強がっていたが帰りは新宿駅で迷子になったそうだ)。
北千住で待ち合わせたのはこの駅から出る小田急の特急ロマンスカーに乗るためであった。
毎年この時期このエッセイで紹介している同業者の友人たちとの旅行が、今年は関東地方では
近場で馴染みの温泉地・箱根湯本温泉となったためだ。ロマンスカーは通常は新宿から
箱根湯本までを行き来している路線であるが、週末の土日に限って北千住始発で
地下鉄千代田線を通り抜けて走っているのである(午前と午後に1列車ずつ出ている。
但し新宿は経由しない。千代田線内は大手町・霞ヶ関・表参道の3駅の停車である)。
千代田線といえば東京の地下を縦断する通勤・通学用の普通電車ばかりの路線である。
定刻にホームに現れた窓の大きい銀色のその車両はいかにも千代田線には馴染まない容姿で
あったが、一般のお客が間違って乗り込まないように注意を促す構内アナウンスが
何度ともなく流れていた。全席指定であるので指定された先頭車に入り席を探すと、
なんと我々の席は最前列の運転席のようなポジションであった。
電話で切符の予約を入れた際にオペレーターに「座席はどうします?」などと聞かれ、
どういう意味かわからないままおまかせにしたのだが、どうやらこの列車では
一番の特等席をとってくれていたのだ。とてもラッキーな旅の始まりであったが、
車両内を見渡すと乗客は数人しかいない貸し切り状態でもあった。
う〜む、素人目に見てもいかにも赤字の運行である。しかし後に箱根湯本駅に着いて
気が付いたが、折り返しの帰りの発車を待つお客は多く、どうもそこで採算が取れている
ようでもあった。午後発のこの車両は帰りのお客のための回送電車のようなものかも
しれない。箱根で一日遊んで、夕方5時箱根発の電車はちょうどよい組み合わせである。
電車に乗ったらまずビールで乾杯の親父2人旅である。座席前方は地平に向けて
延々と線路がのび、青い空と相まって開放感あふれる絶景であった。
が…しばらくしてなにか違和感を感じ始めた。一番のポジションなのにいまひとつ
合点がいかないのはなんだろうか?やがてその原因に気がついた。
電車の速度が遅すぎるのだ。箱根まで続く小田急小田原線はその大部分が上下一線路の
複線であり、通常の普通電車や準急の運行も多いのであろう、ロマンスカーは特急とは
言いながら駅に停まらないだけで速度は普通の電車とさして変わらず、スピードの爽快感が
ないのである。とはいえ箱根までおよそ2時間20分、北千住よりの便利さと
お一人様2400円のリーズナブルな運賃、
そして快適なシートと大満足な列車の旅であった。
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■ 執筆後記 ■
「旅バカ」と自称しているが、
通常の生活は極めて出無精、
外出嫌いかもしれない。
矛盾している。
東京に遊びに行きたいと思わない。
ディズニーリゾートに行きたいとも思わない。
よほどの用事が無い限り、近くにある
日本最大級のショッピングモール
「イオン 越谷レイクタウン」も然りである。
ぶらぶら外の空気を吸う、そんなことは面倒なのである。
なにかこころ躍(おど)るような大きな目的が必要なのだ。
情報で、テレビ番組で、聞いた話で
そんな大きな目的が見つかれば、
もうそわそわして気持ちが落ち着かない。
こころはすでに目的に向かって出発しているのである。
近場にしても、遠くにしても、私のお出掛けは
”きらめく希望の地を示した冒険の地図”を必ず片手に持っている。
エッセイで書かれてきた多くの旅は、そんな旅ばかりのはずだ。